【短編小説】お願いマッスル
「チカラが欲しい?」
お姉さんが訊く。
でも帯太郎にはチカラが何か分からなかった。一枚の板が割れる、それだけで十分だった。
でもチカラがあったら、クラスのイヤな奴らもぶっ飛ばせるかも知れない。
帯太郎は頷いた。
お姉さんは帯太郎を包み込んだが、それがどう言う事なのか帯太郎にはまだ分からなかった。
蹴り飛ばした石ころが植え込みに入っていってしまった。
今日はなにひとつ上手くいかない。
帯太郎は家を出てみたものの、行く先が無いことに気がついて困っていた。
家を出たのは空手の昇級試験で、ひとりだけ板を割れなかったのを母親にしつこく詰られたからだ。
勢いで家を出たので、お小遣いも持ってなかったからジュースも買えなかった。
帯太郎は確かに不様で惨めだった。
基本動作にメリハリは無かった。試験科目の型もうろ覚えだった。逆立ちに至っては同じ受験者の中年男性に足を掴まれ吊り上げられていた様なものだった。
しかし試割りだけはどうにも誤魔化せない。
帯太郎はその日の試験会場でたった一人、木の板を割れないでいた。
会場のみんなが見ている中で一枚の板を割れないのは母親に言われるまでも無く惨めだった。
「なにもあんなに言うことないじゃないか」
帯太郎は誰もいない公園で、ブランコに向かって足を投げた。
石はブランコの間をすり抜けていった。
ブランコに石も当てられない。
そう思うと惨めな気持ちで一杯だった。
女の子の受験者だって一回で割れていたのに情けない、母親の言葉が頭の中をぐるぐると回る。
自分はあの女の子以下で、本当にどうしようもない奴なのだ。
そう思うと帯太郎は目頭が熱くなった。
確かに帯太郎は昇級試験を甘くみていた。
これまでだと受ければ合格するイベントの様なものだと思っていた。
簡単に白帯から青帯、黄帯、緑帯まで取る事ができた。
だから茶帯に挑戦する時も、そこまで真剣に向き合うような心持ちでは無かった。
それを見抜いたのか、帯太郎の母親は
「もうちょっと厳しく見て下さい」
と言うような封書を出したと言っていた。
「きっとぼくの板だけ硬くて丈夫な、大人用のやつだったに決まってる」
帯太郎はもう一度ブランコに向かって石を投げた。しかし石は音もなくブランコの奥に転がるだけだった。
今日は何一つ上手くいかない。
帯太郎は悲しくなった。
自分に価値なんて無いのだと思った。
気がつくと公園の時計が何時を示しているのかも、暗くてよく見えない時間になってきた。
もう図書館も閉まってしまったし、コンビニや本屋も立ち読みのし過ぎで追い出されてしまった。
すっかり行く場所が無くなって公園に来たけれど、行く場所もなければ家に帰るタイミングも分からなかった。
音もなく走るパトカーに怯えたりしながら街を歩いていると、電信柱の後ろからロングコートを着た女のひとが現れた。
「わたし、きれい?」
大人の女のひとだな、と帯太郎は思った。
「綺麗だと思います」
黒くて長い髪の毛は街灯に照らされて光っていた。
「これでも?」
女のひとはマスクを外した。
過度なトレーニングで噛み締めたのか、歯茎ほどまですり減った歯が痛々しかった。
しかしそれでも女のひとは綺麗に見えた。
「はい」
帯太郎は頷いた。
「これでも?」
女の人はコートを脱いだ。
コートの下にあったのは白く滑らかな皮膚と見たこともない程に割れた筋肉の筋だった。
まるでマンガやアニメで見る男のキャラクターみたいな身体だった。
コンビニや本屋で立ち読みする雑誌で見た女のひと達とも違った。
板チョコのように割れた腹筋や魚の鱗みたいな脇腹は街灯の光を受けて深い陰影を刻んでいた。
「綺麗だと思います」
帯太郎は答えた。
お姉さんは軽く息を吸うと全身に力を込めた。
まるでマスクメロンの様に血管が浮き上がった。
そしてシュッと言う音を口から吐くと、握り拳を地面に叩きつけた。
「これでも?」
地球がゆっくりと割れてくのが見えた。
帯太郎はチカラが欲しかった。
お姉さんが何を求めているのか分からなかったけれど、確かにお姉さんは綺麗だった。
ただ、真っ赤に割れた地球の裂け目はそれ以上に綺麗で、板が割れないことなどどうでも無くなった帯太郎は深い眠りに落ちていくのだった。
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