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Re: 【小説】蕎麦屋(意外ないちめん)

 ぼくは湊さんと歩きながら、ぼくと同じジムに通うワタナベくんがいかに厭な奴かを説いていた。
 ワタナベくんは厭なやつだ。
 恐らくぼくのような浮ついた見た目の人間が本能的に嫌いなんだと思う。
 もしかしたら学生時代にいじめられたとも考えたが、どちらかと言うといじめていたタイプだ。

 例えばマススパーリングだと言うのに打撃は本気だし、実際にスパーリングをすればラビットパンチを使ったり親指を目に入れてきたりする。
 そうやって昔から他人には気づかれない程度のいやがらせをしてたんだろう。
 厭がらせをしている相手がアタフタするのを楽しむ趣味だなんて、底抜けに明るくて愉快な奴だ。履歴書に収まらないだろう。
 きっとワタナベくんには年子の弟がいて、その弟も苦労してし、兄弟仲は最悪に違いない。あの感じは次男で、弟は性格がナックルボールより凶悪にねじ曲がっているだろう。
 だいたいワタナベくんは右利きなのにサウスポーと言うのも気に喰わない。
 元々がボクサーだか何なのだか知らないけれど気取ってる。生意気だ。試合に出る訳じゃないなら素直にオーソドックスをやればいいのに。


 とにかく彼はぼくが嫌いで、ぼくも彼の事は好きでは無い。
 少し前まで同じジムにいたスズキさんもぼくが好きでは無かったし、そもそもぼくは嫌われる傾向があるのかも知れない。
 球技や集団競技が好きでは無いから個人競技をやっているのだけれど、個人競技のジムで同じジムに通う人間に嫌われるのであればぼくと言う人間に大きな問題があるのだろう。
 そうであるならば腹を切って死ぬしかない。
 それにしたってワタナベくんは嫌いだけど。


 そのような話をしていると、湊さんは笑いもせず厭な顔もしないで「お腹がすきましたね、ご飯でもたべませんか」と言った。
 ぼくは賛同したけれど、湊さんはお小遣い生活のひとで、かなり節約する傾向にあったから外食すると言うのは少し意外だった。
 もしかしたらパチンコで勝ったのかも知れない。でもぼくに奢ったりするほどの勝ち方ではないやつだ。

 ぼくと湊さんが連れ立って入った店は老舗の蕎麦屋かうどん屋の様に見えた。
 でも入ってみると中は近代的な作りになっていて、とてもエスニックな香りがした。
 スターアニスだとか陳皮だとかクミンの匂いと、ごま油とニンニクが空気の様に店内を満たしている。
 ショーケースに陳列された食品はあまり見た事が無い食材ばかりだった。

 湊さんを保守的だと思った事はないけれど、こういう突飛な店に入って行くとは思っていなかったので意外に感じた。
 今日は湊さんの意外な一面を見る日なのかも知れない。
 それならそれで楽しもうと思う。
 湊さんはこのお店で何を食べるんだろうか。
 池袋の中華料理屋みたいな匂いがするけれど、どんな料理を出す店なのかはまだわからない。
 厨房やショーケースの奥には不愛想な中国人らしき人たちが並んでいて、広東語とも北京語ともわからない言葉で何かを喋っている。香港はまた別だったっけ?

 中国人の逞しさと言うか太々しさに感心するのは、他所の国や土地に来ても郷に従う気なんて持ち合わせていない事だ。
 むかしアメリカに留学していた時も、学校の近くにあった中華料理屋をたびたび利用していたけれど、店の人たちは何年経っても英語がなかなか通じなかった。
 それはぼくだけでなく、同級生たちも同じだったので店員たちは英語を覚えようと言う気が無かったのだろう。
 そもそも英語を覚えようと思わなくたって何年もそこで生活していれば自然と覚えそうなものだけれど、門前の小僧だって聞く耳を遮断していたら経を覚えないものなのだ。


 ぼくと湊さんが訪れたこの店の店員もきっと日本語を覚える気がないんだろう。
 湊さんは「かけうどんをください」と言ったが、店員はわかっているのかいないのか黙って頷くでもなく他の店員と雑談をしながら何かを作り始めた。
 注文はいつもの湊さんだな、と思った。
 意外な一面を見たかったので、トッピング全部盛りとかカレーセットとかを食べて欲しいと思ったけれど、湊さんの意外な一面ばかり見ていると不安になるからそれはそれで良かったのかも知れない。

 ぼくはうどんより蕎麦が好きなのでかけ蕎麦を頼んだ。
 中国人が作るかけ蕎麦と言うものがどんなのか分からないと少し不安に思っていたけれど、出てきたものはごく普通のかけ蕎麦だった。
 出汁なんて取っていないだろうし、きっと市販のめんつゆをお湯で割っただけに違いない。
 葱もさいごのひと切りが出来ていなくて全部が繋がっているし、いい加減な蕎麦の具合からすると湊さんが注文したうどんもきっとロクなもんじゃないんだろうと思った。

 カウンターの奥にレジがあり、トッピングもつけていないのにきりの悪い値段だった。
 小銭入れの中を覗いたけれど少し足りず、長財布から札を取り出した。
 中国人は遠慮なく厭そうな顔をしたので、札と小銭で釣銭を出しやすい様にしようと思ったけれどどうにも出来そうになかった。
 仕方がないのでスマホを出して電子決済をしようとしたけれど、この店はまだ導入してないのだと言うような事を中国人の店員がぶっきらぼうに言った。
 交通系ICカードはどうかと見せながら訊くがそれもダメだと言う。
 中国人のお店でその手の電子決済が使えないと言うのは意外だったが仕方がないのでお札で支払いをした。

 中国人は厭そうな顔をしていたが、レジではなく電卓で計算をしてから、首から下げた鍵でレジを開けると、釣銭を掴みだしてお盆に釣銭を置いた。
 セキュリティの問題なんだろうか。
 それにたぶん釣り銭は足りていないんだろうなと思ったけれど、面倒臭かったので指摘する気になれなかった。
 ぼくの後ろにはいつの間にか行列が出来ていたし、湊さんは座る席を見つけられずに立ちながらうどんを食べてぼくを待っていた。

 そんなにお腹が空いていたのかな、と思った。
 湊さんがそういう行儀の悪い事をするのは意外だったけれど、案外とそんなものなのかも知れないなと思った。
 湊さんが食べているうどんの葱は全部が綺麗に分かれて切られていて、もしかしたらぼくは初めて入ったお店の店員さんにも嫌われているのかも知れないなと思った。
 やはり腹を切って死ぬしか無いのかもしれない。

 でも何にしてもワタナベくんは嫌いだ。

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