中卒性 vs 院卒性。ふたつの知性について。
ぼくの書く文章は、バカなんだかインテリなんだかよくわからない。(イソップ童話の)コウモリみたいなところがある。自覚してはいるものの、しかし、そういう文章がいちばんしっくりするのだから仕方がない。たぶんぼくの文章上の人格は、中卒性と院卒性のリヴァーシブルではないかしらん。(実際は平凡な文系学部卒。)
なんでぼくはこんなおかしな人間に育ってしまったかしらん? ほんらいぼくの資質はアート系だというのに。しかし、もともとぼくは学校の勉強は苦手な癖にやたらと乱読で、しかも人生のなりゆきであれやこれやの編集の仕事をやってきた。コスメ、ロックンロール、ゼネコン、経済関係その他、まったく一貫性がない。おのずとその場しのぎのにわか勉強を続けるはめに陥った。結果、ぼくは(もともと新聞を読むことさえも苦手だった癖に、なりゆき上)概念を操作する方法を覚えた。いま目の前にある結果から原因を見出すさまざまな知見も知った。だって、こういうことを多少なりとも身に着けないは知的な世界を扱うことができないから。サルだって練習すれば概念操作くらいできるようになるもの。(あくまでも比喩表現です。実際にはヒト以外の動物は概念を扱えないことによって、生き残っています。)そもそもぼくは概念操作がほどほどにできればそれで十分で、けっして立派な学者になろうなんてことははなからおもわないのだから。
なお、ぼくはやさぐれた田舎育ちで、さかのぼれば炭鉱の街で、その後セメント工業~ガス工業の街である。人間よりも田んぼのカエルの方が多かった。インテリなんてものは学校の先生くらいしかいなかった。もちろん町に大学なんてものは存在しない。
そんなわけでぼくは優れた鮨職人のような(自分の体で覚えた知識以外にはまったく頼らない、そんな)中卒性へのあこがれが強い。じっさいぼくが友達になった人たちのほとんどは中卒、高卒、あとはアート系。とくに(ぼくは料理人の友達が多く)料理人たちはほぼ全員ヤンキーメンタルです。ぼくは料理人やミュージシャン、アート~デザイン系の人たちと一緒にいるときいちばんくつろぐ。準じて、コンビニバイトの人たちと世間話をするときもめちゃめちゃたのしい。
もっとも、そんなぼくとてきわめて頭のいい人は尊敬するけれど。(逆に言えば、偽インテリの高慢ちきな上から目線のとんちんかん発言に触れると、がぜんぼくはからかいたくなる。そんなときのぼくはいくらか ひろゆきさんに似てるかも? あの人は赤羽育ちで、歩いているだけで殴られる街だった、と回想しておられます。どこも工場の街はそんなもの。ダウンタウンのおふたりも尼崎のご出身ですね。けっして芦屋や、あるいは東京で言うならば世田谷区や杉並区からはああいう人たちは育たないもの。)
他方でぼくはおもう、いまの世の中って、(自分の体で覚えた知識以外にはまったく頼らない、そんな)中卒の立派な職人への評価が足りないんじゃないかしらん。もともと日本には職人を尊敬する文化があったのに。また、インテリになれば偉いなんてことはまったくないのに。
なお、フランスの教育制度はものすごく極端で、義務教育の中心に哲学教育を据えているのは良いとして、インテリはめちゃめちゃ少数精鋭で、他方、職人になるならば中卒がデフォルトである。学校教育に向かない人は進学するな、ということである。もっとも、職人のなかには稀に高卒もいるけれど。そういう社会が理想的かどうかはわからない。悪く言えば学力で振り分ける階級社会である。なお、高学歴にはカネ持ちの子が多い。おのずと階級は固定してしまう。しかし、良く言えばフランスは〈職人知〉をちゃんと認め評価しているとも言える。なお、アメリカの教育環境はいくらか日本に似ていて、カルチュアセンター的な大学もたくさんあれば、他方でアカデミズムに特化した超エリート大学もまたある。
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