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一度上等の鮨を食べると、あなたの人生は変わる。

もしもあなたがぼくの文章の読者ならば、おおよそぼくの銀行預金残高がおおガネ持ちから遥かにほど遠いことに察しがつくでしょう。したがって、ぼくがここで言う〈上等の鮨〉はけっして数寄屋橋サブローシローの話題ではありません。先日ぼくが食べたわが友、大坂寿一さんおひとりでやってらっしゃる日本橋・浜町に隠れ切った寿司処 海さんの一万一千円おまかせコースのことなんだ。あれ以来ぼくの人生は変わった。



いいえ、これまでだってぼくは何度かそれなりには上等の鮨も食べたことがある。感動したこともあった。ただし、当時ぼくの専門があまりにも中華料理、インド料理、フランス料理に特化していたせいもあって、いくら鮨がおいしかろうが、残念ながらぼくの人生を変えるまでには至らなかった。そもそも鮨のネタは、ネタごとの味の違いがあまりにもデリケートで、しかもいわゆる江戸前の鮨職人がそのネタにほどこす「仕事」の意味=そのネタのおいしさを最大限に引き出すための仕事の意味を理解したいという好奇心が生れなかったのだ。


しかし、いまのぼくはあの頃とは違う。ぼくもまた世界中の食のなかで、鮨だけが備えている魅惑の世界に惑溺することができたのだ。なるほど百円鮨にもそれなりの楽しさがある。うちの近所の銚子丸は百円鮨とは価格とおいしさの差別化をいくらかなりともしている。近所のスーパーマーケットのなかには(豊富な格安粗悪冷凍ものに混じって)フレッシュで良い魚介を売る店もある。(西葛西サニーモール内マルエイ鮮魚部だ。)これからもぼくこれらの店はお世話になることでしょう。しかし、コース一万円代の鮨世界はまったく別世界であることをぼくは知った。



あれからまだ一週間しか経っていないというのに、ぼくはホタテを、(これまでのように貝柱冷凍ではなく)、フレッシュを貝殻ごと買うようになった。フレッシュな貝柱はとろっとろにおいしい♡ 包丁も研石で研いだ。ソラマメを塩茹でして、お湯を切って、タマネギ、ニンニク、ショウガを炒め、チリ産格安白ワインを注ぎ、最後にホタテを投入し、軽く炒めて塩胡椒を振って、食べもした。北寄貝を買ってきて、身を茹でてから、水道水にさらし、包丁で軽く切れ込みをいくつか入れることも覚えた。しかも、貝柱を削ぎ落した後のホタテの貝殻にへばりついたヒモや、同じく北寄貝の残ったヒモをへばりつかせた殻に、醤油と紹興酒を注ぎ、軽く炙って食べることも覚えた。ホタルイカを醤油と酒に漬け込んで食べもした。すべて甘露、heavenly yummyである。以来日々のぼくの食事はフィッシュ・ヴェジタリアン(矛盾した言葉だけれど)に大きく傾いた。



ぼくはまだ最高のコハダイワシの最高のおいしさの基準を知らない。ホタテツブ海赤貝についてもまた。まずは、自分の舌にその基準を作りたい。また、鮨ネタには四季おりおりのおいしさの歳時記があるようだけれど、それだってぼくは知らない。いまのぼくには鮨について知りたいこと、どしろーとのへっぽこアマチュア料理人ながら身に着けたい技術、そしてまだ見知らぬ幸福が山のようにある。人生ってすばらしい! 高級鮨、万歳!



ぼくは知った、たとえ年に4回でも2回でも、一万円代の鮨を経験することは、ぼくらの人生を変える。



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