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心に楽園を棲まわせるおばあさん。

五月の晴れた昼下がり、ぼくはバス停の短い列の後尾についた。ぼくの目の前にはおばあさんの背中がある。70代後半とお見受けする彼女はチューリップハットをかぶり、マスクをして、ストライプのドレスシャツに、グレイのジーンズを穿き、スニーカーを履いて、背中に小さな楽器ケースを背負っておられます。



ぼくはお訊ねした、「背負ってらっしゃる楽器はなんですか?」
彼女は答えた、「これ? ウクレレ。」
ぼくは訊ねた、「ハワイアン、お好きなんですか?」
「そう。お友達と一緒にウクレレの先生について、月2回習っているんですよ。」
「ぼくもね、中学生の頃ウクレレ弾いてましたよ。楽しかったな。ひとつひとつコードを覚えて、曲を弾くのが。もっともぼくは自己流で好きな歌を弾いて歌っていただけだけど。しかも、親に買ってもらったウクレレが安物だったからペグがすぐ緩んじゃって、そのうちに飽きて、フォークギター、やがてエレキギターに進んじゃったけれど。」
「わたしは16年もウクレレ弾いてるんだけど、まだまだなかなか、ね。」
ぼくは訊ねた、「演歌はお好きじゃないの?」
彼女は答えた、「演歌はちょっとね。」
「じゃ、津軽海峡冬景色とかお嫌い?」「好き♡」
「あらら、実は演歌もお好きなのね? でも、もっとお好きなのはプレスリー?」
彼女は答えた、「プレスリーも好きだけど、あの頃いちばん好きだったのはカーペンターズね。」


やがて都バスが到着し、彼女とぼくはそれぞれ別の席に座って、会話はそれっきりになった。ぼくはウクレレを弾いた経験があるとはいえ、おもに自分の好きな曲を弾いて歌っただけのことで、ハワイアンについては『ブルー・ハワイ』と『カイマヒナラ』しか知らない。(もしかしたら、ぼくのこういうハワイアン受容は、『泰安洋行』時代の細野晴臣さんからの影響かもしれない。)なお、ぼくは『ブルー・ハワイ』をエルヴィス・プレスリーの歌で知った、のどかな曲だ。『カイハマヒナラ』とはダイアモンドヘッドを意味するハワイの言葉で、陽気で楽天的で能天気な曲だ。ペダルスティールのグリッサンドされた響きがまどろみを誘う。もしかしておばあさんはどこかの公園で、5月の公園で、木漏れ日のなか『ブルー・ハワイ』や『カイハマヒナラ』を歌い、弾いておられるかしらん? そんな想像はぼくを幸福にしてくれる。そしてぼくはおもった、ぼくも心に楽園を棲まわせなくちゃ。





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