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小市民悪魔主義者、自称早稲田大学准教授の生活と意見。(2)


ぼくにとってすでに「准教授」はかなりめんどくさい奴になっていた。それでもあるときぼくはおもった、たまにはあのバカのご機嫌でもとってやるか。そこでぼくは自分の贔屓店のなかでもっともゴージャスな内装で上等のセラーを持つ麻布十番のフォア・グラ自慢のフレンチレストランにかれを連れて行った。ぼくの贔屓の店のなかでは例外的な価格帯、食事代金一万五千円の店である。べつにぼくが奢ったわけではない、割勘である。ぼくはその料理人とソムリエに開業前からしたしく、ぼくは年に二、三度しか来店しないとはいえ、当時ぼくにとってその店は自分の家のダイニングのようなものだった。ぼくにとってフランス料理は美女とふたりで愉しむべきもの。「准教授」とふたりで食べるのはむなしかったけれど、しかしぼくはその夜の食事代を喜捨とおもうことにした。なお、高額店にありがちなことながら、その店のシェフも給仕長兼ソムリエもたいへんに客をヨイショする。「准教授」はさんざんおだてられ、純白のコットンのかかったテーブルで得意満面にフランス革命を論じた。「そもそも革命前夜のフランス社会があまりにも差別的で特権階級が庶民から搾取するピラミッド構造でしたからね。しかしけっきょく革命によって聖職者も貴族もみんなギロチンにかけられて、いいざまですよ。ははは。」ぼくは棒読みで相槌を打った、「さすがですね~、准教授。」サーヴィス担当も調子を合わせた、「大学の講義もこんな感じでやってらっしゃるんですね。お話もわかりやすいし、学生にも人気でしょうね。ワインは召し上がらないんですか? 先生みたいになると上等なワインを飲みなれてらっしゃるから、うちのワインなんて飲めないでしょ。」(実は「准教授」は下戸なのだが)まんざらでもない様子でレヴァーパテを底まで綺麗にたいらげぐんにょり笑顔でこう言った、「おかわりください♡」



あるときかれは文学好きのぼくへのサーヴィスのつもりもあったろう、こんな話題を振った。
「『ハリーポッター』はヨーロッパ文学中世以来の探求のテーマを上手に扱っていますね。」
ぼくは相槌を打った、「なんか笑っちゃいますね、だってイギリス文学って、アーサー王の頃からえんえん聖杯伝説ばっかでしょ。田舎の殿様のメンタリティですよね。ロンドンもローマ都市のひとつだったとはいえ、イギリスは長きにわたってあまりに辺境ゆえ、なんとかかたちだけでも統治の正統性の象徴が欲しいんでしょ。それが”キリストが最後の晩餐で飲んだワイングラス”っていうんだからいやはや。」




すると「准教授」はどういう脈絡か突然神を呪いわが身の不遇を嘆きはじめた。
ぼくは言った、「早稲田大学の准教授ならば不遇でもなんでもないでしょ。」
しかしかれは否定した、「いえね、た、たしかにわたしは准教授ですけど、え、英文科じゃなく、た、他学部の准教授ですから、ぐ、愚民どもが支配するあの薄汚れた、ぞ、象牙の塔で、わ、わたしは肩身が、せ、狭いんですよ。



いまにしておもえば、かれはぼくもまたかれの側に立って大学の腐敗に憤って欲しかったのだろう。しかし残念ながらぼくには大学業界に憤る動機がなく、またかれの説明があまりにも不明瞭だったゆえ、ぼくは脈絡もわからずただ困惑しただけだった。


それから「准教授」はフレンチレストランの巡回に力を入れるようになった。「コスパ、コスパ、コスパ~♪」とニワトリのように囀りながら。



しかしフランス料理を愉しむためは料理名の読み方を知る必要もあれば、かんたんなフランス料理の歴史の教養も持っていることが望ましい。しかも、料理人ごとにスタイルも違うのだ。焼肉や駅弁を味わうのとはわけが違う。とうぜん「准教授」の選ぶフレンチレストランはとんちんかんで、かれの感想もまたつねに一貫して見当はずれなものだった。


あるときぼくは「准教授」に訊ねた、「なんなんですか、センセのコスパ哲学って。ミシュランだの友里某だのの怪しげ評価を拝みつつ、次から次に高額有名店をまわって。友里某なんてワインの原価にはくわしくとも、しかしフランス料理についてはどしろーとじゃないですか。また、そんなにコスパが大事なら自分で弁当作って弁当持参で大学へ通えばいいでしょう。次に美食もまた価値をめぐるゲームです。ほかでもない自分ならではの料理についての審美的価値基準があるからこそおもしろい。それなのにセンセはコスパが価値基準だなんて意味不明もいいところ。また、センセには自分にとってすばらしい料理を提供する店への愛着とか、料理人への敬愛とかってないんですか? 好きになった店ができたなら何度もリピートしてこそ、店主の考えもわかってきたり自分好みの料理を出してくれるようになったりよりいっそうたのしめるでしょうに。」
するとかれはむっとして言った、「わたしは料理は作れません。どこで食べようがわたしの自由、腐ってもミシュランですよ。スージーさんと友里氏のどちらを信用するかと言えば、そりゃ友里氏に決まってますよ。あたりまえじゃないですか。そしてリピートしようがしまいがわたしの勝手。いちげん客にもちゃんとベストの料理を出してこそ一流ですよ。それなのに食通気取りどもといえば、贔屓の店を作って料理人におべっか使っておもねるような奴ばかり、自分が店にいいように使われていることに気づきもしない。わたしはけっしてそんな愚民どもに組することはできません。」むろんそのせりふにはぼくへの皮肉も込められていた。「准教授」は自説を展開した。「店の利益と客の利益は相反するもの。店が得すりゃ客は損。理性ある客がコスパを問題にするのはあたりまえです。


ぼくは言った、「レストランは楽しみに行く場所ですよ、お店のスタッフだって客に幸福な気持ちになってもらおうとおもっている。ふつうにしていれば楽しめるでしょ。かんたんなこと。なんでまたセンセはわざわざ大金払って、レストランと敵対関係作って、おたがいに嫌な気分にしてしまうんですか、コスパ最悪じゃないですか。」


すると「准教授」は声を荒げた。「カネ持ちぶるんじゃないよ、この偽善者! わたしはけっしてグルメについてだけコスパを重んじているわけではありません、人が人生においてもっとも考えるべきことそれがコスパです。スージーさん、コスパが低いってどういうことかわかります? 努力しても報われないことですよ。コスパが高いのは楽して報われること。世の中にはたいした実力も実績もないのにちゃっかり評価されうまい汁をちゅうちゅう吸ってる人間どもがどれだけ多いことか。わたしの信念コスパ哲学はそんなふとどきな連中を憎みながら、呪いながら、長い年月をかけてじっくり熟成されたものなんですよ。


ぼくは呆れた、「いくら努力したって事と次第によっては結果が出せないこともあるのはあたりまえですよ、なぜってものごとには向き不向きがありますからね。自分に向いているジャンルを探すことこそがまず最初に大事なことでしょう。」
するとかれはポケットから稲穂を取り出し、肥えた顔の前でクルマのワイパーみたいに振りながらこう言った、「いいですか、スージーさん、世の中がいかに不公平にできているか、冷徹に見極めてきちんと憤るべきなんですよ。人それぞれの努力がきちんと公平に評価される社会を望むことは当然のこと。わたしはね、ミルトンの世界観をベースにわたしのコスパ哲学を育ててきたんですよ。」
ぼくは言った、「ダンテの『神曲』と並んでキリスト教文学の双璧、『失楽園』のあのミルトンですか???」
かれは言った、「そうですよ、ここで哺乳瓶の話なんかするわけないでしょ。ミルトンは『失楽園』のなかで予定説 predestination を批判しています、わたしたちはみんなアダムとイヴの末裔です、サタンに誘惑され罪を犯しエデンの園を追放され死を運命づけられています。全人類はたったひとりの例外もなくみんなひとしく堕落しているんですよ。では死後はどうですか? 予定説に立てば、神は最後の審判において救済する者と地獄に突き落とす者とをあらかじめ振り分けていることになる。どう生きようが死後の定めはあらかじめ決まってるんですよ。



不公平にもほどがある。もちろん人はみな生きてるあいだじゅうえんえん気に病む、はたして自分は救済を予定されているのか、それとも地獄へ突き落とされる人間なのか。壮絶な緊張ですよ。

ぼくは言った、「わはは。そもそも一神教は厳しくおっかないものなんですよ。われわれみたいな八百万の神々ののどかな風土と比べても仕方ありませんよ。」
かれは言った、「いいですか、スージーさん、わたしはここで不公平を問題にしているんです。わたしだけじゃありません。ミルトンはピューリタンでありながら言いました、“たとえ地獄に堕されようとわたしはこのような神を尊敬することはできない。”もちろんわたしも神に屈従など絶対にしませんよ。」



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