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心の整理には時間がかかる。~思ったことを書いてみる。苦手な場所へも行ってみる。~

こんばんは。
今日も自分語りというか、高校卒業からしばらく心に引っかかっていたことを書きたいと思います。長いので嫌気がさしたらすみません(°_°)

友達などに話したこともあまりなくて、話したいけどなんか酸っぱい話になりそうだし、過去にすがらず今を生きろよというのもごもっともと思い、聞かれない限り話さないようにしていました。(そしてほぼ聞かれなかった。皆、人の過去にそれほど興味ないと知った。そして悶々としている人たちは文章にするなどして昇華させ、あまり言わないんだなと感じている。)

でも消したい記憶でもないしむしろ大切な経験として刻まれていることです。

まあ突然どうした、てことなんですが、以下の記事を読みまして。↓ ふと感じていたことをまとめたくなりました。

https://www.google.com/amp/s/president.jp/articles/amp/54477%3fpage=1

「東大・一流・エリートの呪い」うん、わかる。私もかかっていたと思います。そして今も全くその呪いから解かれたわけではない。やはり、目指してしまった人には少なからず残る感情だと思います。私は東大生を目指した非東大生です(そしてもう卒業する)。


目指して、落ちた。それだけといえばそれだけのことですが、友達とあまり受験の話をしたことがありません。特に東大生の友達とこの話題はできなかった。正確には、相手が話してきたら愛想笑いしながら聞き、自分は切り出せない、て感じでした。変なプライドが邪魔をし、私の心に蓋をしました。下手に話して、もう関係ないしね(*´`)とか言ったら、それこそ酸っぱく聞こえそうですし…。逆に私と同じ立場(夢敗れた系)の人とも、そうそう楽しい話題でもないし、心にある悔しさは人それぞれなので、だよねー!とも言いたくない、言われたくないだろう、ということで、あまりしませんでした。
もちろん、今後の人生で語れるようになるかもしれません。まだ傷(傷とか自分で言うことすら恥ずかしいけど。)が癒えてないだけかもですね。


過去を語ることの気恥ずかしさ

なんだろね、自分語りってやっぱ恥ずかしいことなのかな。
自叙伝を残したい!て言う人がたまにいるけど、それは後世の、自分を知らない人へ伝える言葉だから、素直に綴れるということなのかな。
自意識過剰と思われたくないのかもしれません。こういうnoteも、特定の人に話しているのではないから素直に綴れるんだと思います。

しかし、4年経った今思うのは、特段過去について話す必要もなかった、ということです。入学当初は、友達とは頑張ってきたことをお互い話すもんだと思っていました。自分も色々悔しい思いもして成長もしたと思っていたので、そういうことを誰かと共有したいと思っていました。
でも日々は目まぐるしく動くもので、皆、目の前のことに一生懸命です。私のように思うところがある人もたくさんいるのでしょうが、皆心の中をあまり見せず、目の前のことに一生懸命に見えました。むしろSNSで自分の人生を憐れんでいる人とかはあまり見たくないなと思いました。
なので、過去の話をすりゃいいってことでもないか、と自分に言い聞かせた部分はあります。

でも、実際普通に会話をしていれば、受験に限らず思い出話は出てきますよね。中学でこんな変な先生がいたとか、高校の修学旅行の武勇伝とか。その延長線上に受験の話があります。
だから皆、平然と思い出を語ります。そんなん当たり前です。

では私はというと、受験が、ひいては中高の生活と密接に結びついていました。そうやって生きてきてしまった。勉強以外のこともたくさんしましたよ!でも勉強が常に心を支配していたんです。どうしようもない。ずっと順位を気にして生きてきました。
もちろん面白い経験談を思い出したら、そこを抜き取って思い出話として話すことはできます。でもそれ以上話を深めていくことはあまりできませんでした。深めていくと自分の感情に行き着いてしまう。そしたら、自分が大した理由もなく、一番の学校にこだわっていた話に行き着いてしまう。
自分はなぜこんなに周りに気を遣って中高の話ができないんだろう、と悩むこともありましたが、たぶんこれが原因です。

さて、前述の「一番」について。仮にそこに入学できたとしても、学生は何千何万といて、とてもじゃないが自分は一番の存在ではない。名前に箔が付くだけでそこで頑張れなかったら、一番に意味はない。
でも当時の私はただ、一番の学校だから、一番の学校の友達を作りたいから、そんな中身のない理由で、そこに行く以外意味はない、私にはここしかない、と思っていました。ある種洗脳レベルで私も東大至上主義になっていたのかもしれません。それだけ思い詰めるくらいで勉強しないと普通の子は合格圏内に行けません、恐らく。そして塾の先生にもそう言われすっかりそう思ってきました。世の中には色々な人がいて、別に東大だけが全てではない、と家族に言われたり自分に言い聞かせる時もありましたが、そうと思うと頑固なところもあるので、他の選択肢は心になかったと思います。
こんなクッキープレートや日記のメモや絵など高3の時に書いていました。こういう遊び心もあったので、思い詰めつつかなーり気も抜いてましたよ。

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私にこの思い詰める勉強法が果たしてよかったのか、わかりません。ここだけ抜き出すと最善ではなかった気がします。周りを見ない勉強をして、大学選びとかほとんどしませんでした。それって、これをしたい、こんな大人になりたい、といった動機をしっかり持って進学して勉強している人を見た時に、恐ろしく引け目を感じるのです。(でも正直、そういうのを高校の間に持てない人も多い。そしてそれは悪いことではない。人それぞれ時期がある。だからあがける時に目的はわからんけど頑張る!という経験自体はよかったと今は思う。)
そんな学習動機の薄っぺらさに、色々落ちてから気づいてしまい、すごく恥ずかしくなったのです。
落ちてから、冷静に他の大学のパンフレットなどを初めて読んでみて、こんな教育が色々な大学でなされているんだ…と大学の教育内容に興味を持っていなかった自分に反省しました。

同時に、教育とはなんだ、という疑念も生まれました。自己決定を迫られ、自分でこの学習をする!ここに通う!ここを受ける!と宣言はしていたので、環境のせいにしたくありませんが、教育や教育環境によって施された思想は、強烈だと思いました。ここに関しても少し大学で考える機会がありました。答えの明確に出ない、そして教育者(先生に限らず、親なども)が生涯自問自答していくテーマだと思います。私は大して深められたわけではないですが、常に教育には主観が入ってくる。仕方のないことだし、それが悪いわけでもない。だからこそどう折り合いつけてやっていくか、が大事だと思います。

ただし、こう色々書いてきたものの、今の自分がいるのはそんな合ってなかったかもしれない勉強法で、もがくことができたからだとも思うので、勉強させてもらえたことに、落ちて考えさせてくれたことに、だからこそ出会えた人やものたちに、感謝しかありませんよ。


場所の記憶はけっこう根深い

過去を語ること以外には、自分の中での葛藤として、場所の記憶との闘いがありました。
大学生となった私は、自分の受験生活とは完全に切り離し、東大の友達ともただただまっさらに仲良くやっていける、と当初は思っていました。なので、東大のコミュニティに飛び込み、東大へ行く機会を自らこしらえました。
でも1,2年生の時など、行くたびに卑屈なことが心に蘇ったり考えてしまったり、東大生を見て嫉妬のような感情を持ってしまったり、東大生になった旧友に会ってしまわないか怯えていたり、けっこう自分って思ってた以上に繊細だなと気づきました。
場所への愛着があまりに湧かなかったので、途中から行く回数が減りました。むしろ東大という場に苦手意識が強まっていってしまった。一方で、自分の大学への愛着がどんどん湧いてきたのも大きいです。これはある意味仕方ない。授業を受け日々を生きる場に愛着が湧くものです。
今となっては、東大もただの一つの場所、、、とも言い切れません笑!未だに慣れていない自分がいて、1人で行くと緊張感がすごいあります。行くだけで疲れるような感じかな。苦手はなかなか克服しない?です。でも、苦手でも付き合える場所もあることを知りました。
東大にはフラれたからもう二度と行かないもん!なんて最初から思って避けていたら、気づけなかったことです。それこそ卑屈を極めてしまったと思うので、結果的に飛び込んで行ってみてよかったなと思っています。
友達になった人たちは尊敬できるところがたくさんあったし、大学とか関係なく興味に対して集中することのできるタイプばかりだったからでしょうね。


こんなメンタルに染み渡った絵本

さて、このような言えない(癒えない)悩みを抱えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
私の場合は受験を機に、でも正直なところ小学校の時点から繊細な感情を持っていて人一倍気にしいでした。
一人ひとり、色々な過去がありますよね。本当に理解し合うのは難しいかもしれません。でもこれを読むと、勇気が持てる気がする、そんなおすすめの絵本を紹介します。(セールストークではございません。)
チャーリー・マッケジー著、『ぼく モグラ キツネ 馬』という絵本です。
絵本のような感じで文字が大きく、一文が短い。ぼくとモグラとキツネと馬の短い会話が、ページごとにゆるいつながりをもって、描かれています。
登場人物たちの短い会話の中に、人生で悩む人にそっと響くエッセンスが込められています。
こういう自分語りを書いている途中に読んだので、心がナーバスになっていて、思わず2回目がじんわりしてしまいました。
世界中で100万人の心をつかんだ、と帯に書かれていると、ほんと?と思ってしまいましたが、読んでみてよかったです。絵本なので本当にすぐ読み終わりますが、余韻もかなりあり、また心がズキズキした時に読みたいと思いました。
気になる方はぜひ読んでみてくださいね。


心の整理、起点を思い出す

最後に、高校の卒業式の日の夜に書いた日記を一部ここに記します。↓
超絶自分語りです。でもここにひっそり、書いてもいいですか。もうこの時の私ではないので。⚠言葉は変なところがあります。

00:18。昨日高校卒業しました。
式中、涙は出なかった。自分はそれでいいと思えた。
でも、今涙出た。何となくモヤモヤしてた。すーの悪いクセかな。少し泣いたら少しスッキリしたけど。
正直に言うと、卒業式は周りが泣いていることが理解できなかったりしてたのかもしれない。泣くことじゃないんじゃないか、とか思ってたのかもしれない。立派だった、とか卒業おめでとう、とかいう言葉を素直には受け入れられず、疑問を感じてしまったりしたのかもしれない。その中には、これからの生活への不安が確実にあったことと思う。このひねくれ感が今のモヤモヤの原因だと思う。全部キレイごとだと思って片付けようとしていたのかもしれない。本当に思うことは口にするものじゃなく、心の中にあるものだって思っちゃってたかな。結局最後の最後まで、空気に流されて写真を撮らなきゃーって焦ったりしてた自分も少し認めたくないのかもしれない。だから自分の心に従順に行動している人に羨望のまなざしを心の中で持っていたのかもしれない。尾崎豊の卒業の歌詞なんか書いて独自の卒業の受け止め方をしているアピールをしているつもりか?!自分にはそんなつもりは全くないが、ひねくれている感じに見える。自分を持ってないような気がする。最近の私は感傷にひたったり現実逃避のような空想を追うような行動ばかり繰り返して、受験に落ちたことを仕方のないことのようにしているかのようだ。もしくは何とかなるだろ、と結局のところは楽観視しているのかな。なりたい自分が定まってなくて、ちやほやされたり、すごいとされる人たちをうらやむだけ、とか、行動できない自分に嫌気がさすとか。最近ずっと受験生活でひとりでいて、忘れかけてた感覚が戻ってきた気がする。自分は、エゴなところがある。どうしても、完全に他者のため、みたいな行動が難しいことがある。例えば、今回では、写真を撮ってくれる?って頼まれるのがイヤで、でも良い顔して撮ってあげようか、とか言っちゃう自分。撮ってあげたら、「すーちゃんも次一緒に撮ろう。」って言われるのが筋じゃないか、とか思っちゃう自分。しかし考えてみれば…すーは人にそれまで深入りして話できないヤツになっちゃったのかな…。そこまで干渉しない。みたいのがモットーになってるような。本当は、でも、もっと深い議論をしたい、とか思ってるけどできないのがつらいんだと思う。周りの皆に平均的につき合うような感じ。そうして自分を維持しているのは周りのことばっか気にしているってことだ。謝恩会では□ちゃんのことが間接的に3度ほど出てきて、そのたびに風化されていくような思い出がむなしく思えてきたんだと思う。◇◇先生と◆◆先生の学校を去るという知らせ、2人のそれぞれの話。◆◆先生の話は正直涙出た。つまり、優秀な生徒を育てるのも楽しくやりがいがあった。でも、自分は教職に就く中で、教え導くことには向いていると思って、そして別のやり方で違う人たちを育てるという道に進みたいと思うようになった。というような話だ。◇◇先生とは特に何も話さなかったけど、◆◆先生には小論の添削のお礼して握手してもらった。写真も撮った。「つかみ取ってください。」と言われた。
明日は東大の合格発表だ。

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⚠歌詞を少し間違えています、すみません


それではまたヾ('ω'⊂ )))Σ≡アデュ-

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