見出し画像

太陽の塔のこと。

我が家の太陽の塔。

子どもの頃、我が家には太陽の塔のレプリカ像があった。
深緑色をした高さ30センチほどのずっしり重たいブロンズ像で、黒いプラスチック製の専用台座に据えられていた。つい最近まで大阪万博の土産物だとばかり思い込んできたのだが、なんとカラーテレビ(白黒テレビが存在していた時代の話である。)購入時の特典だったようだ。

わたしが岡本太郎と彼の作品を好きになったのは、我が家にあったあのレプリカ像が大きく影響していると思う。

我が家の太陽の塔は当初、居間のテレビ台の下に置かれていたと記憶している。テレビ購入時の景品だったことを考えるとごく自然の流れだったのだ。そして数年後には通称「奥の間」と呼ばれていた続き部屋最奥の部屋へ移設、いわゆる床の間の、「天照皇大神」と書かれた掛け軸の麓へと収まった。アマテラスオオミカミと太陽の塔のコラボレーション。父のアイデアか、はたまた母の気まぐれか。いずれにしても的を得たレイアウトにしたものだと感心する。

恐らく小5、6の頃、床の間に腰掛けて太陽の塔のブロンズ像と戯れた記憶がある。戯れと言っても相手はずっしり重たいブロンズ像であるからして、よいしょと持ち上げてみたりペタペタ触ってみたりするくらいのことなのだが、レプリカとはいえ、あの意匠は何か人間の本能に訴えかける力を持っていたのだと思う。

画像2
太陽の塔ではありません


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


本物の太陽の塔。

太陽の塔は1970年に開催された大阪万博のシンボルゾーンであるお祭り広場に建設されたパビリオンだった。当時すでに世界的に著名な建築家であった丹下健三氏設計の大屋根(高さ30メートル)の中心を突き破る格好で、屋根の上にぬっと顔を出すという斬新な配置で完成した高さ70メートルのテーマ館だ。

「人類の進歩と調和」というテーマを掲げて開催された万博だったが、当時撮影された写真を見てみる限り太陽の塔周辺の光景に「調和」は感じられない。ハイテクを競い合うさまざまな国や企業のパビリオン郡の中にあって、生命の中心、祭りの中心を示す太陽の塔はさながらパラレルワールドから出現したかのような異彩を放っている。
岡本太郎氏の強烈なメッセージそのものである現在・過去・未来の3つの顔※を持つ外観と、塔が内包する生命の物語は、完成から50年経っても色褪せることはない。

※表面に見える3つの顔の他に、パビリオンの地下には「地底の太陽」といわれる第4の顔が展示されていた。博覧会終了後の撤去作業以降、未だ行方不明がわからないのだそうだ。ワクワクする〜


画像3


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


ドキュメンタリー映画「太陽の塔」。

先日、知人に勧められてドキュメンタリー映画「太陽の塔」を観た。(2018年公開作品)岡本太郎に縁があったり影響を受けた人々が、太陽の塔という作品を通して岡本太郎という存在を語ってゆくのだが、語り部の中のひとりが太陽の塔を"言葉を超えた存在"と表現していた。
わたしにとっても太陽の塔は、ブロンズ像で遊んでいた幼い頃からずっと「なんか好き」「なんかいい」という漠然とした表現でしか言い表すことのできない、まさに言葉を超えた存在だった。まさに「考えるな、感じろ。」である。
(太郎さんも名言を多く遺しているのになぜかここでブルースリー)
映画は幾つかのキーワードに沿って展開し、最後のキーワードは「贈与」だった。「贈与」という言葉は自分自身の最近のキーワードに符号し、深く印象に残った。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

記憶には残っていないけれど、1970年の大阪万博開催中に両親に連れられて本物の太陽の塔との対面も果たしている。しかし、その後太陽の塔を訪ねる機会は一度もないままだ。
人々の往来が制限されるという想像もしなかった経験をした今、自由に出かけられることのありがたさを身をもって知ることとなった。行ってみたい場所へは行けるうちに行っとこう!

ところで我が家の太陽の塔はその後、実家取り壊しのどさくさに紛れて、本物の第4の顔同様行方不明となってしまった。取り壊しの頃にはわたしは家を出てすでに10年以上経ってしまっていてブロンズ像のことなどすっかり忘れていた。最近になってふと思い出し、行方を父に尋ねてみたところ「そういえばどうしたかなあ。」とまったく無頓着だった。
惜しいことをした。


画像1


ロケ地:我が家&岡本太郎美術館



この記事が参加している募集

#熟成下書き

10,597件

#一度は行きたいあの場所

54,172件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?