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現像したフィルム写真に、地元横浜への愛が詰まっていた。

その街のことをよく知っているからこそ、撮れる写真というものがあると思う。わたしはそういう写真がとても好きだ。普段から、人でも場所でも着飾ったよそいきの表情ではなく、いつもの飾らない姿を見たいと思う方で、物事がもつ素朴な一面を愛している。

春の近づくとある日、わたしは横浜で時間を持て余していた。仕事ついでに帰省したものの、実家の鍵を持っていなかったため母親の仕事が終わるまでひとり時間をつぶすことに。ちらほらと桜が咲き始めていたので、桜木町駅で下車して大岡川を目指した。

新南口という改札ができていた。


都会で街中のスナップを撮ることは殆どないのだが、その日は気候も最高で春の香りはわたしを撮りたい気持ちにさせてくれた。相棒のカメラを取り出して春の桜木町さんぽへ。まだ人もまばらな野毛を通り、大岡川へ。眠るハーモニカ横丁を横目に歩く。


しばらく来ないうちに街並みは変化していて、おや?こんなところにカフェなんて出来たのかぁと近づいてみると、ちょっとお洒落にした不動産屋だった。以前よく行っていたお店の場所すら思い出せず、記憶の曖昧さにひとりで笑ってしまう。久しぶりに会った街との対話はおもしろかった。

桜木町に戻って、みなとみらいを歩く。みなとみらいといえば、デートスポットや観光地という印象が強いかもしれないけど、かつては用もなく、毎日のように訪れていた場所だ。ちなみにわたしは、コスモワールドのジェットコースターや観覧車が好きで、ひとりでも平気で乗るタイプ。現実逃避したい時におすすめです。

こうして散歩しながら撮った写真には、いわゆる観光地としての桜木町の姿は全く写っていなかった。もしこれが観光系のお仕事だったら即クビだろう。でもその代わりに、わたしが愛してやまない地元としての横浜の姿がよく写っているような気がした。

ああ、これがわたしの好きな街だ と思った。
街が生きているかんじがする。

例えば、あたらしい恋人ができた時、最初はその人の一番分かりやすい側面しか目に付かないもので、そのわかりやすい部分をその人だと認識するだろう。

けれども、ながい時を共に過ごし、まだ知らぬ側面に触れていくうちに、様々な表情を兼ねそなえた多面的な認識にうつりかわっていく。とくに複雑さや、陰と陽、また静と動というような相反する性質を併せ見るようになると、そのものが生きているということを感じて、とても愛おしくなってくるのだ。

あえて言葉にするならば、見せるために作られた幻に目を向けるのではなく、目の前に確かに存在している素朴なものを大切にしながら、にじみでた何かを掬い取るようなかんじだ。

SNSを見ていると、世界を飛び回るインフルエンサーの投稿よりも、身の回りのものを大切に写した個人アカウントの写真の方が、ぐっとくることも多い。大抵そういう個人的な愛にフォーカスしたアカウントはフォロワー数は多くはないものの、たくさんの人に見てもらうことを目的にしていない分、愛が詰まっているように思うのだ。わたしは横浜をこれほどまでに愛していたのかと気付かされた。

また別の日には、山形に帰る前に山下公園に立ち寄った。マリンタワー・枝垂れ桜・いつも手入れされた花々に、だいすきなタイルの天井。とくべつ何をするというわけでもないけど、歩くだけでわたしには十分だ。大学時代、満員電車がつらい日にはエスケープして、朝っぱらからよくここで本を読んでいた。その節は大変お世話になりました。

横浜に帰る時は大抵が弾丸帰省で、家族いがい、誰にも会えないことも多いけれど、土地が、空があたたかく迎え入れてくれる。いつでもそこにあり、多少変わってしまったとしても、それは街が生きている証拠だ。母なる大地というけれど、大地がコンクリートになった都会であっても母のような愛を受け取っている。それを感じるだけで、ほっとしてまた頑張ろうという気持ちになれるのだ。

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