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趣味は読書とクラシック音楽鑑賞。合気道弐段。韓氏意拳もやってます。最近のマイブームは、…

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趣味は読書とクラシック音楽鑑賞。合気道弐段。韓氏意拳もやってます。最近のマイブームは、町中華&定食屋さん&温泉巡り。

最近の記事

村上春樹『暗闇の中のランタンのように』より

”どれだけ穴を掘って埋めて隠しても、出てくる時には出てくるんです。僕らは歴史というものを背負って生きていて、それはどれだけ隠しても必ず外に出てくる。歴史は、自分たちが背負うべき集合的な記憶なのだと、僕は考えています。”(文學界2019年9月号「村上春樹ロング・インタビュー」19頁) ”言葉を通して、架空のものを実際あった出来事のように人に体験させるというのは、小説にしかできないことです。そういう物語を経験するかしないかで、人の考え方や、世界の見え方は違ってくるはずです。生身

    • 『司馬法・尉繚子・李衛公問対』より

      「軍旅以舒為主。舒即民力足。」 ”軍旅は舒を以って主となす。舒なれば即ち民力足る。”(『司馬法』第二「天子之義篇」51頁) 「凡兵、不攻無過之城、不殺無罪之人。夫殺人之父兄、利人之財貨、臣妾人之子女、此皆盗也。」 ”およそ兵は、過ちなきの城を攻めず、罪なきの人を殺さず。それ人の父兄を殺し、人の財貨を利し、人の子女を臣妾とするは、これ皆盗なり。”(『尉繚子』第八「武議篇」160頁) 「攻是守之機、守是攻之策、同帰乎勝而已矣。」 ”攻むるはこれ守るの機、守るはこれ攻むるの策、

      • 岩波文庫版『孫子』より

        「凡戰者、以正合、以奇勝。故善出奇者、無窮如天地、不竭如江河。終而復始、日月是也。死而復生、四時是也。 聲不過五、五聲之變、不可勝聽也。 色不過五、五色之變、不可勝觀也。 味不過五、五味之變、不可勝嘗也。 戰勢、不過奇正、奇正之變、不可勝窮也。奇正相生、如循環之無端。孰能窮之。」 ”凡そ戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ。故に善く奇を出だす者は、窮まり無きこと天地の如く、竭きざること江河の如し。終わりて復た始まるは、四時是れこれなり。死して更[こもごも]生ずるは日月これなり

        • 謝枋得『文章規範』より

          ”命《めい》を聞きて奔走する者は、利を好む者なり。己を直|くして道を行う者は、義を好む者なり。未だ利を好んで而《しか》も其の君|を愛する者は有らず。未だ義を好んで而も其の君を忘るる者は有らず。”(韓愈「張僕射《ちょうぼくや》に上|る書」37頁) ”今の衆人、其の聖人を去るや亦《また》遠し。而も師に学ぶを恥ず。是|の故に聖は益々聖に、愚は益々愚なり。聖人の聖たる所以《ゆえん》、愚人の愚たる所以は、其れ皆此|より出ずるか。”(韓愈「師の説」148頁)

        村上春樹『暗闇の中のランタンのように』より

          岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』より

          ”現実の司法は検察と裁判所が一体化して国家権力の威信とメンツを相互に補完しあい、ただただ自分たちの権益を守っているだけの存在にしか見えないのが現実なのだ。”(第三章「休刊宣言騒動事情篇」103頁) ”今やジャーナリズムを志す若い人々にとって、せっかく高い競争率をクリアして大手メディアに就職しても、自由に取材、執筆する態勢はどんどん失われつつあるのが現状だ。メディアがジャーナリズムというよりも情報産業化しつつあり、本来の権力チェックという機能や調査報道の比重が低下しているため

          岡留安則『『噂の眞相』25年戦記』より

          本田靖春『複眼で見よ』より

          ”いつのころからか、世はグルメばやりだという。そのこと自体に文句はないが、ブームに乗って調理人が喋々と能書を並べたてる昨今の風潮は、テレビなどで見ていて目に余るものがある 職人に能書きは必要ない。自分の手がけた仕事がすべてである。黙って良い仕事を心掛けていればそれでよい。訊かれたら、そのとき初めて、出過ぎない範囲で答える。それが職人の慎みというものであろう。 ところが、客よりいばりくさって、一皿ごとに能書どころか講釈まで垂れるアホがいる。それを拝聴している客も客で、私ならタダ

          本田靖春『複眼で見よ』より

          中勘助『銀の匙』より

          ”蚕が老いて繭になり、繭がほどけて蝶になり、蝶が卵をうむのをみて私の知識は完成した。それはまことに不可思議のなぞの環であった。私は常にかような子供らしい驚嘆をもって自分の周囲をながめたいと思う。人びとは多くのことを見なれるにつけただそれが見なれたことであるいうばかりにそのまま見すごしてしまうのであるけれども思えば年ごとの春に萌えだす木の芽は年ごとあらたに我れらを驚かすべきであったであろう”(後篇「八」146〜147頁)

          中勘助『銀の匙』より

          宇沢弘文『自動車の社会的費用』より

          ”社会的共通資本は、その使用に対して、社会的費用が発生しないように設計され、管理されなければならない。上に考えたような社会的費用はもともと発生してはならないものであって、社会的費用の発生をみるような経済活動自体、市民の基本的権利を侵害するものであるという点から、許してはならないはずである。”(「おわりに」175頁)

          宇沢弘文『自動車の社会的費用』より

          青木理『時代の異端者たち』より

          ”政治家はもちろんですが、責任ある立場にいた官僚もいずれは歴史の法廷で裁かれます。そして自分の心に嘘はつけない。いずれ歴史の法廷に立って裁かれることを常に考え、自分の心に従い、官僚を後輩たちはそれに恥じないような行動をとってほしい。自分の行動を律し、おかしなことには誠実に声を上げていってほしい。心からそう願っています。”(平嶋彰英)

          青木理『時代の異端者たち』より

          『平家物語』より

          ”聖徳太子十七箇条の御憲法に、『人皆心あり。心おのおの執あり。彼を是し我を非し、我を是し彼を非す。是非の理、誰かよく定むべき。あひともに賢愚なり。環のごとくにして端なし。ここをもつて、たとひ人怒るといふとも、還つて我が咎を恐れよ』とこそ見えて候へ。”(巻第二「教訓状」)

          『平家物語』より

          世界の名著6『プラトンⅠ』(田中美知太郎編、中央公論社)より

          ”ひとかどの人物と思われている者にとっては、何が恥ずかしいことだといって、自分自身の力によらずに、祖先の名声によって自分を尊ばれるものにすることほど、恥ずかしいことはないのだ、ということをよく知っておいてほしいのだ。”(「メネクセノス」215頁) ”まずたいていのばあいは、よき友よ、権力を持った人たちというものは悪しき人間となるのがつねなのだ。”(「ゴルギアス」402頁) ”人は、自分が不正を受けることを警戒するよりも不正をはたらくことのほうを警戒して避けなければならぬ。

          世界の名著6『プラトンⅠ』(田中美知太郎編、中央公論社)より

          アミラ・ハス『パレスチナから報告します』より

          ”やむにやまれぬ大胆さで法律が破られるとき、人は立法や行政にたずさわる当局についてよくよく調べてみなければならない。ソビエトのユダヤ人は禁止行為であったにもかかわらず、ヘブライ語を学んだ。1960年代まで米国南部の法律は、バスの前部座席に黒人が座ることを禁止していた。19世紀の法制度は、奴隷が読み書きを学ぶことを禁じていた。チャウセスク時代のルーマニアでは、ラジオで海外放送を聴くことは重大な犯罪とみなされた。人はいつだって、正義と平等の基本原理に反する法律を破ってきたのだ。”

          アミラ・ハス『パレスチナから報告します』より

          H.D.ソロー『森の生活』(上)より

          ”ある階級の贅沢は、他の階級の貧困によってつりあいを保っている。一方に宮殿があれば、他方には救貧院と「もの言わぬ貧民」がある。”(「経済」66頁)

          H.D.ソロー『森の生活』(上)より

          岡 真理『ガザに地下鉄が走る日』より

          ”(イラン・パペ)ユダヤ人と謂えども、この惑星に暮らす他の人々と異なっているわけではないのだ。ほぼすべての人間集団に対して、他のある人間集団を非人間化することを教え込むことができる。このようにして、ごくふつうのドイツ人がナチスの死の機械に、アフリカ人がルワンダのジェノサイドに、農民たちがカンボジアのキリング・フィールドのとりこまれていった。自分たちのことを、非人間化の犠牲者だと主張する者たちでさえ、そうだ。1948年のシオニスト部隊は、パレスチナで、老若男女問わず殺害するとい

          岡 真理『ガザに地下鉄が走る日』より

          スティーブン・J・グールド『ダーウィン以来』(下)より

          ”古い理論の指導のもとに古い方法で収集された新しい事実は、思想を本質的に修正するようになることはめったにない。事実が「みずからを語る」ことはない。それは理論の光のもとで解読されるのである。創造的思考は、芸術におけるがごとく、科学においても、意見を変えるための原動力である。科学は本質的に人間の活動であって、論理の法則によって不可避的な解釈にゆきつくというような、客観的情報の機械化されたロボット的集積ではない。”(20章「大陸移動説の妥当性」42頁)

          スティーブン・J・グールド『ダーウィン以来』(下)より

          スティーブン・J・グールド『ダーウィン以来』(上)より

          ”科学とは客観的な情報を収集し古い迷信を破壊しながら真理へと向かうゆらぐことのない行進ではない。科学者は、普通の人間と同じく、その理論の中に、その時代の社会的・政治的制約を無意識のうちに反映させる。彼らは、社会の特権的な成員として、結局は、現在の社会体制を生物学的にあらかじめ運命づけられていたものとして養護してしまうことがしばしばある。”(「プロローグ」16頁) ”科学とは「体系化された常識」ではない。科学が最もわれわれを興奮させる側面とは、それがわれわれが直観と呼ぶ古来か

          スティーブン・J・グールド『ダーウィン以来』(上)より