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「ミトンとふびん」とあの日の記憶

今日、図書館で借りた吉本ばななさんの「ミトンとふびん」を読んだ。

発売当初からずっと気になっていた一冊だったのだけど、なんとなくタイミングが合わないまま、その存在自体もいつの間にか自分の中からすり抜けていって、これまでたまたま縁がなかった。

それなのに、今日、駅前の図書館に行く直前にふと、「そういえば、あの本、今図書館に在庫あったりするかな」と思い立って、事前に図書館の在庫状況をネットで検索してみたら、たまたま今は誰も借りていなくて、駅前の図書館にも在庫があるという。以前何回か図書館の在庫を検索してみたこともあったのだけど、そのときは人気すぎて予約がいっぱいで常に在庫切れしていたのに。なんという不思議なタイミング。そのまま駅前で買い物がてら図書館にも寄って、今日は無事所定の本棚からお目当ての本を手にすることができた。

ネット上で何度も見かけたことのあるきれいな表紙。やっぱり実物もきれいだった。それから駅前で食料品などいろいろ買い物を済ませて、家に帰宅して、お昼ご飯を食べてひと段落してから本を開いた。まだ子どもたちが小学校から帰ってくる前の時間、一人の静かな家の中。

たしか、身近な人を亡くした人々の話、というようなこの本のテーマを事前にネットで見かけていた。短い小説が何編かおさまっているようだった。もしかしたら少し重い内容なのかもしれないと勝手に予想していたけれど、読み始めたらさらっと読みやすくて、最初の話を読み終わって、そのままスムーズに二つ目の話に移行していく。一つ目の話を読んで、心地よい哀愁のようなものを感じながら先に進んだ。

一つ目の話の長さがとてもコンパクトだったことに対して、二つ目の話は一つ目の話よりずっと長かった。一つ目の話と同じくらいの長さだと勝手に思っていたので、ページをめくるたびに、あれ、まだ先がある、あれ、まだ先がある、と思いながら読み進んだ。話が長いことが嫌なわけではなく、でもどこまで続くんだろうとなんとなくそわそわしながら読んだ。先が見えないことへのそわそわ感。

すると、この二つ目の話を読み進めているうちに、ずっと昔、まだ学生時代に、ばななさんの「デッドエンドの思い出」という本を読んだことをふと思い出した。その本もたしか短編小説集で、どちらかというと明るい話というよりはしっとり暗めのトーンの話が集まっていて、でも当時の私はなんだかその本をとても気に入って、当時購入したその本を、その後もしばらく自分のお気に入りの本の一つとして、長年本棚の中におさめていたのを覚えている。頻繁に何度も読み返したりするわけではないのだけど、私の中で特別な位置付けだった。でもそれもいつしか何かのきっかけで手放して、今は私の所有する本棚の中にそれはない。

もはや、具体的にどんな話がその本の中に入っていて、私がその本のどういう部分を気に入っていたのかも、あまり覚えていない。でもなんとなく、先ほども書いたような、その本の明るすぎない、柔らかい暗さのような空気感を当時の私は気に入っていたような微かな記憶がある。なんだか、優しくて、手元に置いておきたい本だった。そんな気がする。

そんな本の内容自体は記憶が曖昧な中、一つだけ印象に残っているのは、その短編小説を集めた本の中の一つの話で、たしか小学生くらいの主人公の男友達が物語の最後のほうで死んでしまう、という衝撃的な内容があったこと。決して激しいトーンの話ではなく、少し不穏さはありながらも柔らかい雰囲気の話だったのに、最後の最後でまだ小さい主人公の友達(同じく小学生)が死んでしまう、というどんでん返しというか不意打ちの展開に、当時の私はショックを受けた、ということがなんだか記憶に残っている。

「ミトンとふびん」を読みながら、そんな記憶が一気に蘇ってきて、私は不意に、この自分の中にある記憶の残り香のようなものが、本当に覚えている通りなのかを確認したくなり、一度本を横において、スマホで「デッドエンドの思い出」をネット検索してみた。すると、大まかなあらすじが出てきたので読んでみたのだけど、え、そんな話だっけ?みたいな記憶にないあらすじもたくさん出てきた。

短編集だったのでいくつかお話が入っていたのだけど、その中で一つ私の記憶と合致しそうなのが、「虐待を受けていると噂のあった男の子」が出てくる話。そうそう、確かにそんな話があった気がする。そしてもしや、その男の子が最後死んでしまうのではなかったか…?

どうしても真相を知りたくなって、つい「デッドエンドの思い出 死ぬ」などとはたから見たら不穏な言葉で検索をしてしまう。でも、その本の中で誰かが死ぬ、という情報まではネットには出てこなかった。むしろ、本当はそんな場面なくて、私の記憶違いだったのだろうか…。これは、本当に改めて記憶の中にある物語を確認したいのなら、改めて「デッドエンドの思い出」を読んでみるしかなさそうだ。(全然違う内容だったらごめんなさい)

そう思いながら、再び「ミトンとふびん」に戻り、長めの二つ目の話も読み終わった。とても雰囲気が好きな話だった。確かに人の死が根底にある話なのだけれど、地に足がついていて、どこか優しさと清々しさがある話だった。

そこまで読んで、なんとなく一息ついて、ふとこの本の後ろのほうにあるあとがきを見にいった。本を読むとき、私はメインの文章を読み終わる前から、一番後ろにあるあとがきを先に読みにいくことが結構ある。他の人はどうなんだろう。本のメインをしっかり読み終わってからあとがきを読む人のほうが多いんだろうか。それとも私みたいに先にあとがきを読む人も結構いたりするのだろうか。

あとがきは真剣に読むというよりは、まずなんとなくさらっと目を通したのだけど、するとまさに先ほど私の頭の中に思い浮かんでいた「デッドエンドの思い出」というタイトルがそのあとがきの文章の中に記載されていて、思わず目を見開く。本当にびっくりした。

改めてその周辺の文章を読むと、よしもとばななさんの作家人生の一つの到達点は「デッドエンドの思い出」だった、でもあれから二十年、「ミトンとふびん」でやっと次の山を登ることができた、というようなことが書かれていた(詳しくはぜひ実際の本を読んでみてください)。

私はその文章を読んで、勝手に鳥肌が立った。そうだったのか…そういう感覚だったのか、ばななさん…。そして今日、「ミトンとふびん」を読みながらふと「デッドエンドの思い出」を思い出した自分が、何か、ばななさんが言わんとしていること、感じていることのほんのわずかな片鱗でもつかんだのかもしれない、なんて勝手に思えて、勝手になんだかじわんとした。いや本当に、「ミトンとふびん」には「デッドエンドの思い出」の本の雰囲気というか、何かを思い起こさせるものがあったのだ。まさかその私の中の微かな感覚が、本のあとがきで繋がるなんて。

もちろん私がばななさんの考えていること感じていることをすべて理解しているとか、完璧に読みとったとか、そんなおこがましいことは思わない。でも、それでも、私はただの一読者だけど、私は私なりに、勝手に何か受けとったものが、あったのではないか。それって、(勘違いだとしても)なんか、いいなって思う。

本って、読書って、本当に面白いなぁと思う。本を読むということは、もちろん書かれている文章の内容を楽しむのが一番わかりやすい味わい方ではあると思うのだけれど、そこからさらに、その内容やそれを読むという行為が、自然と読者の生活や思い出や感情などといろんなかたちでリンクしたり、そこに自然と影響を及ぼしたりする。その不思議な作用も、また読書の面白さの一つ、醍醐味の一つだよなぁと改めて思ったり。

今日はここまで。まだ何編か話が残っているので、大切に読み進めていこうと思う。そして、近々「デッドエンドの思い出」も改めて読んでみようと思う。

読書って、いいなぁ。

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