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感情の解像度の高さが自分の心地よい選択を導く

今でこそモノ選びの基準、やりたいこと、好きなものにこだわりが強い私ですが、幼少期は食べるものにしても着るものにしても何でもよかった記憶があります。

用意されたご飯を食べて、買ってきてもらった服を着ていました。もちろん、幼稚園の日には制服を着て登園していました。

大人から言われたことに自分の意志を伝えた覚えないがあまりない。

だから、なおさら息子のこだわりの強さと一つ一つの選択に感心することが多いのです。

今朝の息子は、朝起きてすぐに今の食べたい朝ごはんを考えて、注文してきました。

いつも食べてるバナナオートミールヨーグルトは、今日はヨーグルトにバナナを入れないでそのまま食べたい。ヨーグルトにははちみつをかけたい。ご飯は海苔とふりかけで食べたい。と。

出かける前には、少し寒いからとウィンドブレーカーを用意して、太陽が出てるからと帽子をかぶって、トイレを済ませてスタンバイ。

車に乗ると、夫が何の音楽かける?と息子に聞き、息子はディズニーと答えます。

その時の気分によって音楽まで自分で選択することができる息子。

どっちでもいい、なんでもいいではなく、これがいい。

今の気分にとっては、これがベスト。

自分の五感や感情の解像度を高くないことには、好きなもの、反対に嫌いなもの、したいこと、したくないことは分からない。

それが、ハッキリしているということは、常にアンテナが立っていて、違和感に敏感であるということ、そして伝える勇気と強さがあるということ。

今の自分に正直に生きている息子を見ていると、日本の教育制度では何も感じない、何も考えていない方が楽なのかもしれないと思う一方で、自分の意志がないままではどこまでも流されて、結局どこにも辿り着けない気がします。

自分の思うこと、考えることに解像度が高い息子には、このまま自分の意志を持ち、周りに流れず、自分の道を切り開けるようになってほしいと強く思うのです。

そして、私自身もそうでありたい。

自分の心地よい選択、家族の心地よい選択を応援しあえる関係性を築いていきたいと思うのでした。

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