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人を苦しめる「属性」と「役割」による思い込み

「もう年中さんやから、1人で入れるでしょう?」

息子が、朝の登園時に先生にかけられた言葉です。

息子は、保育園に通い始めて2年経つけれど、未だにスムーズには登園ができません。

先生に抱っこされたり、構ってもらわないと部屋に入れない息子に対してかけられる言葉は、どんどん変化していきます。

「ママといたいよね。今日もがんばろう」
「おはよう。一緒に遊ぼう」
「おはよう。抱っこしていい?」

………

「おはようございます」

いつしか息子がきても、私にだけ挨拶をして、息子を迎えにはきてくれなくなりました。

そして、昨日、「もう年中さんなんだから、1人で入れるでしょ?」と言われてしまった息子。

いつまでも構ってられない。

朝の忙しい時間帯。忙しそうにする先生に、そう言われたように感じました。

繊細な息子は、どう感じただろう。

大人の私は、先生も忙しくて、1人の子ばかり構っていられないのはよく分かります。

でも、子どもの目線に立ってみると、息子は、本当は自分もスムーズに行きたいけれどできなくて苦しんでいるのかもしれない。

そんな時に、この言葉は、「年中さんなのに、自分は1人で部屋に入ることもできない」と苦しめることにならないか?

属性や役割に苦しめられることは、何も子どもだけではないと思うのです。

女は弱い。
男は強い。

妻だったら家事ができて当たり前。
夫だったらこれくらい稼いで当たり前。
親だったらしつけができて当たり前。
社会人◯年目だったら、これくらい知っていて当たり前。

妻より稼げない夫は、男なのに仕事ができないと惨めな気持ちを抱えているかもしれない。
料理や裁縫ができない妻は、女なのにこんなこともできないと嘆いているかもしれない。

そんな人にかける悪気のない些細な言葉は、時に凶器になり得る。

みよしゆみさんの記事を読んで、子どもに対しても夫に対しても、もちろん自分に対しても、何かができなくても、責める言葉を使いたくないし、反対に何かができたとしても当たり前にしたくないって思いました。

お兄ちゃんだから。
年中さんだから。
男の子だから。

外の世界では何気ない些細な言葉に、息子は傷ついてしまうこともあるかもしれないけれど、家庭という小さな内の世界では、属性や役割に関係なく人として認めていきたいと思うのでした。

書いていて気づいたことを追記。

先生の目線に立つと、責めたのではなく、1人でお部屋に入れるようにしてあげたくて、その言葉をかけたのかもしれないということに気づきました。

年中さんになったのだから、きっとできるよ!と励ましていたのかもしれないのです。

人間関係のすれ違いなんて、ほとんどが「そんなつもりはなかった」の連続。

中には、相手のことを思ってということもあるでしょう。

私も知らない間に、たくさんの人を傷つけてきたのかもしれない。

以前読んだ本『子どもを呪う言葉・救う言葉』を思い出し、だからこそ、子どもに対して言葉の扱い方には慎重にならなければいけないと感じました。

子どもは、思ったことを1%も言葉にしない。

肝に銘じて言葉を選ぼうと思いました。

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