私が教わった「自分で決めて生きていく練習法」とは。
「形と組手どっちを先に練習したい?」と習っていた空手の道場の師範に聞かれて、
咄嗟に「………どっちでも大丈夫です」と答えてしまった当時小学生だった私。
毎回私に決めさせようとしている師範に、「なぜ毎回私に聞くのだ」と内心思っていたのです。
師範が私の返答に対して言ったことが、今でもずっと心の中に残っています。
「どっちでもいいことも、大きな決断もこの先ずっと自分で選択していかないとあかんねんぞ。ほら、はよ決め。」
そう言われて、「組手でお願いします」と答えた私は、その時にはまだ気づかなかった、自分で決めることの大切さを教わりました。
師範の一言は、その後何日もずっと自分の中に引っかかっていました。
心のどこかに、人に合わせるのではなく自分で決められるようになりたい思いはあったのです。
小さな決断も積み重ねると、うまくなる。
どんなに小さな決断でも積み重ねると、決めることがうまくなります。
例えそれが、人生において何の影響もないような選択だったとしてもです。
今日着る服。
今日行く場所。
今日食べる料理。
「どっちでもいいよ」「どこでもいいよ」という言葉が出そうになったら、飲み込んで、「○○がいい」と言うようにしました。
すると、自分が心地よい、自分が好きなこと、自分が満たされるものを選べるようになってきたのです。
「○○でいい」ではなく、「○○がいい」という言葉は、少しの違いのように見えて全く違います。
その言葉の変化のおかげで、自分のすること全てに主体的になり、人のせいにしたり、言い訳をすることがなくなったようにも思います。
小さな決断の積み重ねが、私の自信の積み重ねにもなりました。
決断の数だけ、違和感センサーが発動する。
大人になった今、私は、空手の師範のおかげで、「○○でいい」の考え方を手放すことに成功しました。
自分で決断しないと、「○○でいい」の考え方の癖は常態化する。
「○○でいい」は、環境にも自分にも甘えと妥協があるのです。
受け身でいては、自分の理想に近づくどころか、何が理想なのかどうかも分からないでしょう。
私は、自分が勤める会社で働くことに最初に違和感を覚えたのは、この「○○でいい」と発言する人の多さでした。
「別に他にやりたいこともないし、この会社でいいかな」と口にする人だけが会社に残り、やりたいことがある人、自分の理想がある人は次々に転職していきました。
「この会社でこの仕事がしたい」と言う人はほとんどいません。
他の会社を知らないので、そんなものなのかもしれませんが、私が一緒に働きたい仲間像とはかけ離れていました。
自分がどうしたいのか、違和感があるのなら、言葉にして、自分で頑張る環境を選んでいきたい。
自分で自分の道を歩む。
そのための方法は、小さな小さな決断からだということに、気づかせてくれた師範との出会いに感謝するのでした。
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