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無意識に感じていた「かわいそう」のプレッシャー

はあちゅうさんのnoteを読んで、無意識のうちに、「かわいそう」のプレッシャーを感じていた自分に気がつきました。

この保育園問題。お母さんが仕事帰りにスーパーに寄ってから、保育園のお迎えに行くと、保育士さんに、先に子どもを迎えに来てほしいと注意を受けたという話です。

そして、こんなことを言われたそう。

「子供はレジ袋を持ったママを見て、『お迎えより先にスーパーに行ってきたんだな』と感じますよ、少しでも早くおうちの人に会いたいのに、かわいそうです」

それに対して、はあちゅうさんが感じた「かわいそう」のプレッシャー。

家族のご飯を作るための買い物で少しの時間お迎えが遅れるのは果たして「かわいそう」なんですかね?ベビーシッターに預けるのはかわいそう、延長保育はかわいそう、お弁当に冷凍食品はかわいそう……育児の現場に「かわいそう」の呪いが多すぎる。意味不明な「かわいそう」の分だけ、親(主にママ)のプレッシャーは増えるのに。

私は、この「かわいそう」という言葉に育児の現場だけでなく、幼少期からプレッシャーを感じていたように思います。

共働きなのに家事を一切しない父を見て、母がかわいそうと感じていた幼少期が根底にあることも原因でしょう。母の負担を減らそうと毎日していた家事ですが、たまに、今日は疲れてるからちょっとやりたくないなと思っても「かわいそう」を原動力に動いていたように思います。

大人になってからは、職場の人に、私がお菓子作りが苦手で、彼氏に作ったことがないと言えば、「彼氏かわいそ〜」と言われたこと。

結婚してからは、慣れない家事育児で奮闘するものの余裕がないから、夜の洗い物を夫に頼んでいたら、友人に「旦那さん、仕事から帰ってきて洗い物してるの?かわいそう」と言われたこと。

揚げ物料理が苦手で、ほとんど作らない私に、母が「〇〇ちゃん(息子)がもうちょっと大きくなったら作ってあげないとかわいそう。〇〇くん(夫)も食べたいやろ。」と言われたこと。

その時は、
「手作りお菓子よりGODIVAもらったほうが嬉しくないですか?」
「夜の洗い物って言っても自分の食べたお皿とお弁当箱やで?」
「ストレス抱えて無理に苦手なもの作るより、ストレスなく作って笑顔で食べたいねん」

と返していたけれど、知らず知らずのうちに「かわいそう」のプレッシャーが積み重なっていたんだなと思いました。

何年も前に言われたこと未だに覚えてますからね…。

自分がどうしたいかだ!と選択してきたつもりでも、やはり「かわいそう」と言われると、自分が責められているように感じてしまいます。

女である、妻であること、母であること以前に、みんな人間なのです。

得意なこと苦手なこと、やりたいことやりたくないことがあって当然なのに、手放したことに対して減点方式で評価されるのは苦しい。

そして、「かわいそう」を原動力に行動したことは、必ず見返りを期待してしまうものということも知っています。

見返りが返ってこないと、自分から寛容さが少しずつ削られていくのです。

寛容な自分、寛容な社会の実現を願うばかりです。

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