「ふたりのゆうじ」(創作大賞2023 お仕事小説部門 応募作品)
※この小説は、創作大賞2023「お仕事小説部門」応募作品です。
※この作品はフィクションです。
実在の人物・団体・事件とは一切関係がありません。
※この作品は、私「妄想作家~木花は諏訪の野に咲耶かな~」が 、
2023年7月19日 16:30 に投稿したものです。
プロローグ(Case by 雄士)
やけに寒い朝だった。いつもより少しだけ早く起きた彼はベッドから出ると、寝間着がわりのスウェットの上から無造作にブレーカーを羽織り、バルコニーへ出た。バルコニーと言ってもそんなに洒落たものではなく、借りてる部屋の大きさの割にはやけに広い打ちっぱなしの空間だ。その天井からサンドバックを吊るして、叩きながら思考に耽る。今日は特に、起きてすぐにそんな気分になった。拳を握って、構える。最初は軽いジャブ。ジャブを何度か繰り返すうちに、足が動き出す。スパーリングを兼ねて、少し、動きを付ける。次第に振れが大きくなるサンドバックをタイミング合った瞬間に、思いっきり強打する。
バシっ!
その音を皮切りに、早朝の冷たい空気を切り裂くような打撃音が続く。その音に耳を傾けながら、頭は別のことを考えていた。
「これ」が本当に正解だったのか…
「これ」に立ち返ると途端に気が滅入る。いや、よそう。あの時、何があっても振り返らないと決めたはずだった。経営者にとって、定期的な振り返りは必要だし、重要だ。そうやって、いくつものビジネスをスタートさせては、展開、拡大、譲渡を繰り返し、自分はまた新しいことに挑戦してきた。しかし、「これ」に関しては、是非を問わず、振り返らない。そんな不退転の決意があった。
もう一度、決意を固めた。次の瞬間、打撃の切れ筋が変わる。集中力が高まる。まるで実戦のような感覚に陥る。狙いを定めた瞬間に、サンドバックが真っ向から自分を狙って迫ってきた!
バッッ!!!ンン!!!
「‥‥!!!!」 ストライクゾーンに強烈にパンチが入ったその音と同時に、スマホの着信音が高らかになった。
…きた。定刻通りだ。
「…もしもし」
無軌道に揺れ動くサンドバックを後にして、ベッドサイドのスマホを手に取る。
「…篠さんっ! …48%まで行きました!」
暫し、呼吸を整える音が聞こえた。木田は、既に投資家たちの家を全て回り終えて、社に戻る途中のようだった。
「…分かった、俺もすぐ行く」
電話を切ると、全ての服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。こんな寒い朝なのに冷水でもいいくらい、火照りを感じる。その内側からの熱さが四肢に届く頃、心身ともに全ての準備が整ったことを、彼は知る。
ライブ配信プラットフォーム・サービスのOnSTAGE
その持ち株が…、48%までに達した。
代表取締役CEOは言うまでもなく、あの加賀佑司だ。
市場外取引で、あと3%まできた。しかし、相手もそう易々と城を明け渡す訳がない。ここからは本丸(市場)で勝負だ。市場で勝負すれば、株価が吊り上がる懸念もある。だから、3%。こっちも持ちこたえられるであろう、ギリギリの線だ。
今日、仕掛けるしかない。
シャワーを出て、ラフに髪が乾く頃には、もう迷いはなかった。彼はいつもの革ジャンを羽織ると、その迷いのない足音で部屋を後にした。
プロローグ(Case by 佑司)
「…っ!」
突然、地面が無くなるような感覚に襲われて目が覚めた。一瞬、ビクっと身体が痙攣し、筋肉が強張った。次の瞬間、いつの間にか眠ってしまっていたことも、夢も見ていたようなことも思い出す。
それは、いつもの夢だった。何かを追い掛けてる幼い日の自分が居る。でも何を追い掛けているのか分からない。そして、いつもそれには追いつけないところで目が覚める。訳も分からず、涙を流して目覚める日もあったが、今日は、不思議と無感情だった。
何も掛けずにそのままソファにゴロ寝したからだろう。身体が芯から冷え切っているのを感じる。身体を摩りながらソファに起き上がると、時刻は既に8:00を回っていた。
「…やばっ」
いつもならとっくに起きている時間だった。ソファから跳び上がると、急いで何か適当に身にまとった。スマホと鍵と、必要最低限のものをコートのポケットに入れて、冷蔵庫の扉を開ける。このままコンビニに寄ってすぐ、タクシーに乗ってもいいけど、それだとまたグミとコーラになってしまうから、もっとまともなものを口に入れておきたかった。とは言え、大してまともなものなんてなかった。いつものR-1ヨーグルトを一気に飲み干すと、無造作に転がっていたきゅうりを頭から丸かじりして、彼は部屋を出た。
マンションの階段を駆け下りて、通りに出てタクシーを拾おうとしたところで、スマホが鳴った。秘書のルミさんだと直ぐに分かった。
「はい、はいっ、はい、今、出ますよ…」
ポケットから取り出して応答するとすぐに、彼は耳を疑った。
「…すぐに来てください、お願いします」
いつも冷静沈着なルミさんの動揺した声が、事の重大さを物語っていた。電話を切ると、彼は直ぐに走り出した。タクシーを拾うより、自分の足で走った方が早いと思ったからだ。自宅から会社までの直線距離約2km。昔なら毎日走っていたような距離なのに、今じゃ、すぐにタクシーを使うようになった自分を、この時、久々に情けなく思った。通勤で駅へ急ぐ人の波を逆走し、遊歩道の浸入禁止柵を、昔得意だったハードル走の要領で飛び越えて行く。こんなにガチで走ったのは、卒業以来かもしれない。嘗ては、6分台で到着できた距離も、7-8分掛かったところで目的地に到着する。オフィスのフリー・スペースには、既に出社してきた社員たちでごった返していた。
「…加賀さん!こちらです!」
社員たちを掻き分けて奥へ進んだところで、ルミさんに発見された。フリー・スペースに隣接するミーティング・ルームでは、既に何人かの取締役たちが待機していた。ルミさんに促され、担当者のMacを覗く。
「…えっ」
それを見た時、一瞬、ドッキリかなんかなのか、それとも、今日は四月一日とかじゃないよな、とか。そんなことが頭に浮かんだ。
「朝一の定例で報告しようと、さっきダウンロードしたばかりで…」
担当者の青ざめた顔が、自らを責めているように見えて、いたたまれなかった。彼は、担当者の肩に軽く手を置くと、深く呼吸した。
「…いや、油断した、僕が悪い、ごめん」
落とした視線をもう一度、Macの画面に向ける。画面に開かれた株主構成表。48%を占める大株主の名前を凝視する。
投資ファンドグループ WEL-BE。
代表取締役CEOは他の誰でもない…、あの篠田雄士だった。
1. 譲れない戦い
「…今週もハピモニを楽しんで頂いてありがとうございました!また来週!」
はい、お疲れ様でした!
エンディングの音楽と共にMCの挨拶が終わって暫くすると、ADが終了の合図を出した。お疲れ様でした~、お疲れ様でした~、と出演者もスタッフも足早に声を掛け合う。ビジネスの宣伝と自身のブランディングを兼ねて始めた、朝の情報番組のレギュラー・コメンテーターもだいぶ板についてきたところだった。挨拶を済ませた出演者の心は、もう既に次の現場へと向かっている。佑司も例に漏れず、マネージャさんと次の予定の打ち合わせを秒で済ませると、局の車寄せに待機していたタクシーに飛び乗った。
「渋谷までお願いします」
十月に入ったというのに、日中はまだうだるような暑さだ。エアコンの風が有難い。小気味良い運転手の返答と共にドアが閉まると、下道で20分の距離。その間にも済ませられる仕事はたくさんあった。LINEの通知音。ルミさんへ局を出たことを返信すると共に、例の問題の最新状況を確認する。何点か直接報告したいことがあるので、一旦、社に戻って欲しいと秒で返信がきた。
「はい、はい、言われなくても戻ってますよ…あっ」
思わず、独り言が出てしまい、バックミラー越しに運転手と目が合う。バツ悪そうに苦笑いすると、運転手も笑みを返す。元来の人たらし性から、だいたいのことはこんな風に許された。でも、例の問題のことを考えると、さすがの佑司も憂鬱だった。人たらしでも、この問題だけは笑って許されるものではなかった。この夏、満を持して解禁した新サービスに、あるバグを抱えていた。
佑司がCEOを務めるOnSTAGEは、ライブ配信プラットフォーム・サービスを提供し、2015年の設立から8年目を迎えた。しかし時は、ライブ配信プラットフォーム戦国時代。2010年代後半は、ライブ配信サービスの黎明期だった。比較的、草分け的存在だったOnSTAGEも、2022年の業界ランキングは10位に入るのがやっとだった。
そこで、起死回生のドライバーとしてリリースしたのが、今回の新サービスだった。VR(仮想現実)・AR(拡張現実)のデバイス・ベンダーBeyond X社とのコラボレーション。いつもの推しのライブ配信が、あたかも自分の部屋で、時にはライブハウスで、と言ったように仮想空間で楽しめるものにアップグレードした。そのアップグレード版で、まさに今、事件が多発しているのだ。
「…お客さん、この辺でいいですか?」
運転手の声にハッとする。いつのまにか、目的地に到達していた。いつもなら、もっと多くの仕事をこなせるはずだけど、バグのことを考えると時折、何も手に付かなくなることがあった。
「あ、はい、この辺で停めてください」
会社公認のアプリで決済すると、足早に車を後にする。今日の報告に、何某かの解決の糸口を見出したい。そんな想いで、オフィスへ急いだ。
「…ゴメン、待たせた」
ミーティング・ルームに着くとすぐに本題に入った。Beyond X社とのコラボに依る、新サービス「OnSTAGE-X」のバグ。いや、これはバグと言うより、もはや事件だった。それも、実に奇妙な事件だった。
七月下旬のリリース週は、ユーザー獲得強化週間だった。J-POPのトップアイドルグループや、K-POPのグローバルスターたちによるライブ配信イベントを連日のように企画した。と当時に、VRゴーグルは通常価格の販売と、破格の値段でのサブスクを用意した。そこで、サブスクの初期ユーザーが日本と韓国で合わせて10万を超えたのは予想以上の手応えだった。…だが、まさにその週で、最初の事件が起きたのだ。
イベントの最終日、とあるアイドルグループのセンター級メンバーの単独配信の最中だった。突然、本人による卒業の告知。只今売り出し真っ最中のアイドルの激白にファンは騒然となり、ネットは、#卒業 のハッシュタグで溢れかえった。配信は、彼女の事務所によって強制終了されたが、本人はそんな発言はしていない、の一点張り。後日、事務所からマスコミに正式にコメントが出て、事は収束したが、妙な違和感が残った。
八月に入ると音楽フェスなどとのタイアップで、ゴーグルのサブスクユーザー数は順調に伸び、30万を超えてきた。そんな八月の中旬、二回目の事件が起きる。あるK-POPスターのプライベート配信だった。突然、配信中の本人が、以前から噂になっていた女優と結婚すると言い出した。今度はグローバルスターなだけに、騒ぎは日本に留まらず、アジア、欧州、米国まで広がった。この時、初めて、事の次第が明らかになる。
『アカウントが乗っ取られている』
K-POPスターの事務所から、社にそんな一報が入ったのは、まさに問題のライブ配信の最中だった。スター本人はとうにカメラの前から立ち去っていたのだが、本人ではない誰かが本人になりすまし、配信を続けていると言うのだ。その後、配信はプラットフォーム側から強制終了。その間の数十分、スター本人ではない何者かに依る配信が続けられたのだ。
「リリースからの全てのログの解析が終了しました。リリースからの約二か月で報告があった件数に、我々が把握している件数を足して、28件。これで全部なのは間違いないです」
無造作にコートを脱いで、腰かけた。エンジニア・チーム精鋭たちの、最高グレードのMacが唸る。ディスプレイに共有されたデータたちを眺めた。これだけのデータ量から原因不明の現象を抽出する。それをこの短期間でやってのけるのは並大抵ではない。そんなメンバーを誇らしく思うと共に、何故か、自分のせいで要らぬ苦労をさせてしまっている、そんな風に思ってしまう佑司だった。
「この現象に関して、一つ分かったことがあります」
創業以来、ずっと一緒にやってきたCTOの笹木が静かに語りだした。
「どの場合も、エモーショナル・レベルが異常に高いのが特徴です」
「…エモーショナル・レベルが?」
エモーショナル・レベルは、今回のOnSTAGE-Xで初めて採用したファンクションだ。Beyond X社のゴーグルには、ちょうどコメカミに当たる部分にセンサが内蔵され、脈拍や体温、さらに脈拍からの推定値での血圧等の生体データが取得できるようになっている。そして、今回、これらの生体データをAIに解析させ、オーディエンスの感動の高まりを数値化することに挑戦。現状これを、エモーショナル・レベルと命名し、将来的にはエモーショナル・レベルに応じたギフティングの自動化に応用しようと考えていた。
「…これが原因?」
「わかりません…でも、突破口にはなるかと」
笹木の提案に息を呑んだ。世間は無責任にも、これをアカウント乗っ取り、などとレッテルを張って炎上を楽しんでいるが、これは通常のアカウント乗っ取りとは訳が違った。OnSTAGEのプラットフォームに不正アクセスの痕跡は皆無だ。おまけに、なりすまし配信には巧妙なディープフェイクまで使われている疑いがあるものの、その出処すら全くの不明だった。つまり、今日のエンジニア・チームの言いたいことは一つだ。
『真相究明には、Beyond X社のデバイスに踏み込む必要がある』
笹木を始め、エンジニア・チームの視線が真っ直ぐに向けられる。みなの気持ちは決まっているようだった。後は、佑司が賛同するだけ。それだけだった。
「わかった、好きにやって。お願い」
ミーティング・ルーム空気が、一気に緩むのを感じる。暗中模索だった問題に光が刺した、そんな想いがみなの緊張を和らげているようだった。
Beyond X社との関係性が気にならないわけでもない。しかし、もはやそんな猶予もなかった。世間が、これを一種のイベントでもあるかのように、#OnSTAGE #OnSTAGE-X #アカウント乗っ取り などのハッシュタグで晒上げる度に、OnSTAGEの株価はヒシヒシと悲鳴を上げた。新サービス開始後、1,000円強だったのが、今や900円台に突入し、ストップ安で取引終了になる日もあった。
これは…、譲れない戦いだ。
人生には何度か、絶対負けられない窮地が訪れる。佑司はそんなことを、肌感で理解していた。エンジニア・チームが安心して真相究明に集中できるように、自分にはやらねばならない露払いとバックアップがある。そのことも重々承知していた。ミーティング・ルームの去り際、すぐにルミさんを呼んだ。ここ一か月の全ての予定を総入れ替えする。考えられるだけの全ての対策を打とうと誓った。
2. 負けず嫌い
「茶髪のチャラチャラしてる1年に気合入れるから、お前も来い」
あれは、確か、高校1年の五月頃だったと、雄士は思い出した。高校は特段、不良高校でもなかったが、3年になると先輩方は就職だ、進学だ、と途端に大人しくなる。その分、2年が幅を利かせて、その餌食になるのがいつも1年だって構図は、割と昔から変わらないようだった。
当時、生活費の足しになるようにバイトもしてたし、それに何より、ちょうどボクシングにのめり込んできたところだった。だから、そんなウザい先輩たちには目を付けられるのも、反対に仲間に引き込まれるのも面倒で、適度な距離を保って友好的に立ち回っていた。
だけど、その日はたまたま運悪く、廊下を歩いているところを、屋上に向かっていく先輩と目があった。仕方ねぇな、適当に付き合ってずらかろう、と思って行ったその屋上で、あいつと出会った。
…マジか、こいつ…
一瞬、目を疑った。そいつは、タッパはあるけど、割と華奢な方だし、見た目は簡単にやられそうなんだけど、2年を三人相手に一歩も引いてなかった。「負ける」って言葉が、そもそも辞書にないみたいだ。
「おい、篠田、お前もボーっと見てないで、手伝え」
雄士を屋上へ連れてきた四人目の2年も加勢するようだった。
おいおい、マジかよ、1年一人相手に、いよいよ持って、お前ら頭悪いな、なんて言葉が頭を過った時だった。五人目の2年がバットを持って、現れた。次の瞬間、
…ボゴっ!!!
「…あ、」
雄士の左ストレートが、五人目の2年の顎を確実に捉えていた。五人目はバットを持ったままフラフラして倒れこんだ。本格的に始めてまだ半年とは言え、ボクサーのパンチは狂気だ。これは…学校にも、ジムにも知られたくない、そんなことが真っ先に頭に浮かんだ…その時、
「逃げろっ!」
雄士は、そいつの手を引いて逃げた。屋上からの階段を駆け下りて一階まで来ると、正面の入り口を通過、そのまま正門を抜けて、学校の外へ出た。
「…え、え、え」
学校の外まで来たら、共犯だ。最初は戸惑っていたそいつも、もう引っ込みがつかなくなったのか、雄士より先に遠くへ駆け出した。なんだよ、こいつ、めちゃめちゃ足早ぇじゃねーか。そんなことを思いながら、そいつの背中を見て一緒に走ったことを覚えている。どれくらい走ったのかは覚えていないが、気が付くと、学校の近くの一番でかい公園に辿り着いていた。公園の川に掛かった橋のところで、どちらかともなく立ち止まった。暫く、息を整えたところで、そいつが口火を切った。
「…っなんなんだよ、お前!」
どっちかっつーと、助けてやったのに、文句を言われる理不尽にちょっとムカつく。
「ってか、お前がそんな茶髪にして目立ってんのが、悪いんだろ?」
正論ぶちかまして、その理不尽さを屈服させたくなった。だけど、そいつは屈服するどころか目を見開いて、立ち向かってきた。
「茶髪じゃねーし!地毛だ! こ・れ・は! 地毛だ!!」
・・・?
数十秒間の沈黙の後、雄士はゲラゲラ笑いだした。さっきまで、2年を四、五人相手に一歩引かなかったやべぇやつが、マジ顔で「地毛だ」と主張している。それがなんだか滑稽だった。久々に、腹から笑った気がした。どうしてそんなに可笑しかったのか。今思い返しても、正確なところは分からない。ただ、諦めかけていた心に、希望が灯ったような気がしたのかもしれない。分かり合えるやつなんて一人もいないと思っていた場所に、なんとなく似てるやつを見つけた。そんな気がしたからかもしれなかった。
「…篠さん、篠さん!」
名前を呼ばれて、ハッとする。柄にもなく、久々に昔のことなんか思い出していた。
「聞いてました?こことここに投じますからね。後から、知らねぇ、とか無しですよ」
眼鏡をかけ直しながら、ファンドNo.1のアナリスト木田が雄士を煽った。それに、おーっ、となんとなく適当に返事する。決して怠慢からではなく、大方のことは頭に既に入っていた。だから、不測のことや想定外のことがあったとしても、それはいつも誤差の範囲だ。それだけ、仕事には自負と自信があった。それよりも、昔のことを思い出してボーっとする方が厄介だ、と雄士は思った。そんなことするなんて、随分、焼きが回ってきた。そろそろここも引退なのかもしれない。元々、一つの所に留まるのが苦手だ。変化・転機・展開、物事が回る時にやり甲斐を感じる。かと言って、飽き性なわけではない。人生の軸は一本、既に決まっているようにも感じていた。
そんなことを考えてると、モニターから聞き覚えのある声がした。
「あ、篠さんのお友達じゃないですか…」
『誰もが自分の人生というステージの主人公で、OnSTAGEはそのステージにスポットライトを当てるために立ち上げました。『僕は、ここに居るよ!』『誰か、私のことを見つけて!』という新しい才能が、自分たちだけの努力では乗り越えられない壁も乗り越えることができる。そして、その才能たちを応援したいというファンの居場所みたいな。OnSTAGEは、そういうサービスで有り続けたいと思います』
噂をすれば?…と言うか、思い出の当の本人が登場した。何かのイベントのオンライン配信。どうやらゲストとして呼ばれているようだった。
あのやんちゃが、こうも変わるもんかねぇ…
同い年ながら不思議と、佑司には兄貴的な気持ちになるものの、あの圧倒的な熱量と現状を打破する強さみたいなものには、昔から尊敬の念を禁じ得ない。やんちゃは卒業したみたいだが、負けず嫌いは一生卒業しないみたいだな、と雄士は思った。
「最近、メディアによく露出してますよねぇ、篠さんのお友達」
その言葉に些かの引っ掛かりがあった。そう言えば、最近、本人はやたらメディアに露出してPR活動に力を入れているものの、ネットではOnSTAGEへの批判的なコメントが後を絶たなかった。
「…なんか、炎上してたっけ?」
「炎上ぉっつーか、都市伝説?みたいな。OnSTAGE使ったら、謎のチャッキー的なやつにアカウント乗っ取られるぅ、とか」
なるほど…、クイックにザッピングすると、SNSを中心にそんなイミフな都市伝説が溢れていた。これには、さすがの雄士も心が痛かった。
OnSTAGEの創業には、雄士も一役買っていた。その設立から遡ること3年前の2012年。雄士自身も、ヘルスケア・プラットフォーム・サービスHELFを立ち上げた。2015年はまさに、HELFのサービスアプリが国内1000万ダウンロードを達成したところだった。
その頃の佑司は、創業のVision作りに燃えていて、意見を聞きたいと夜中でも電話が掛かってきた。「お前と違って、俺はちゃんと7時間睡眠なんだよ…」とボヤきながらも、何故か、朝まで付き合ってしまう雄士だった。なので、OnSTAGEには、雄士としても愛着があった。佑司と一緒に作り上げた作品みたいな気持ちもあった。
今や、トップアイドルたちやグローバルスターたちのコンテンツに注目が集まっているものの、初志は「何者でもない才能たちの夢の実現」だ。トップコンテンツたちをCash Cowに、駆け出しの食えない地下アイドルや無名のシンガーソングライターをサポートするフレームワークには、投資家としても共感と評価があった。もちろん、2022年のOnSTAGE東証一部上場に関し、雄士が一肌も二肌も脱いだのは言うまでもなかった。
「それと…なんすかねぇ」
ザッピングする雄士の横から、OnSTAGEの話が続く。
「最近、OnSTAGE株を少額ずつ買ってる海外投資家が増えてきてるんですよねぇ…」
何かが、雄士の頭の中で跳ね上がる。投資家としての直感だろうか。薄っすらと、きな臭いものを感じた。傍らで弾かれるパソコンを覗き込む。履歴を目で追い、大方、頭に叩き込むと、ちょっとばかし無理な指令をぶっこんだ。
「それ、うちの客に買い戻させられるか?」
「えっ、…ちょっと、それは無理じゃないっすかぁ」
無理は承知の上。それでも、この場面をそのままやり過ごしてはいけない。そんな根拠の無い確証が、雄士の頭の中にはあった。
「後で、1.2倍で買い戻すって言え」
「げっ、マジで!?」
かなり無理無理に指示を出し、そこから直ぐに、とある人物にメッセする。いつ連絡しても、だいたい秒で返信が来た。
『Beyond X社の内定調査くれ。なるべく詳しく』
『了解』
その返信に、Thumbマークを付けた直後だった。ほとんど鳴らないスマホに着信有り。相手は、今まさに渦中の人。佑司だった。
3. ギラギラとニヤニヤ
深夜の六本木25:00。待つこと、約二十分。ロックで呑んでいたボウモアの氷が程よく溶けた頃に、佑司は現れた。自分から呼び出しておいて、いつも先に来た試しがない。
「篠っ、急に呼び出して悪い、久しぶり!」
遅れてきたのに悪びれもせず、爽やかに登場するので、出鼻を挫かれる。なんとなくいつも、しょーがねぇなー、と許してしまう。そんな佑司はカウンターに掛けるやいなや、「同じのをハイボールで」と頼み、いつもの手帳とノートを取り出した。
「…それ、だいぶ使い込んでるな」
その手帳には、かなり見覚えがあった。
「あ、これ?…就職祝いに姉貴からもらったやつだから、もう10年以上使ってるよねぇ」
佑司の家のことは良く知らなかった。雄士自身も、家のことを根掘り葉掘り聞かれるのは嫌だったし、だから、佑司の家のことも聞かなかった。ただ、高校の時には既に、両親は居なかったと思う。一回り年上の姉が親代わりだと言っていた。
「…さっそく本題に入って悪いんだけどさぁ…、VRゴーグルとかのハードウェア解析できる人とか、オフレコで紹介できない?」
「Beyond Xのか?」
見開いた佑司の目が、下から覗き込むように、雄士の目を直視した。
「…話、早っ。だいたいのことは分かってる感じね」
そこから佑司は、凡その事実関係と仮説を述べた。それらは、だいたい雄士が想像していたことのエンドースとなった。Beyond Xは表向き優良企業だったが、界隈では質の悪い噂もあった。並行して、内定調査を進めておいて正解だった、という訳だ。
「うちのエンジニア・チームはソフトとアプリのエキスパートだけど、ハードに強い子は居ないからさ。そこはもっと専門家にお願いした方がいいと思って」
佑司はペンを取り、何やら書き始めた。人の話を聞きながらメモを取るのは佑司の常習だ。聞いて、話して、書く。そんなマルチ処理、よく出来んなぁ、と感心するしかなかった。
「あの手のやつに強いところは何件か知ってるけど、ただ、腕は確かな分、値は張るぞ」
「え、全然いいよ」
メモを取る手を止めずに、佑司は続けた。
「むしろ一番高いところでいいよ。こんなところでケチってる場合じゃないでしょ」
その言葉は、竹を割るかのようにスパッとその場を制した。
雄士から、思わず笑みが零れる。こんな窮地に追い込まれても、失わない輝きのようなもの。そんなギラギラしてるものに触れると、なんだか…自分も奮い立つものがあった。
「何、一人でニヤニヤしてんの、篠。キモイよ」
突然、メモに落としていた視線を上げて、佑司が切り込んだ。意外と繊細な雄士は、この手の切り込みに弱い。思考停止。ホワイトアウト。
「うそ、ごめん、ごめん。いやー、篠と居ると、つい素の自分に戻っちゃうよね」
そこからの佑司は取り留めもなく、普通の話をした。仲間とバーベキューをした話。地方の川で遊んだ話。今、日本で一番忙しい企業家は、意外と遊んでいた。おそらく、寝る間を惜しんで、生きている。少しは寝た方がいいのにな…と思いつつも、佑司には好きに生きて欲しいと思ってしまう、雄士が居た。
「エモーショナル・レベル?」
二杯目のボウモアのロックに口を付けながら、雄士が聞き返す。それはだいぶ、OnSTAGEの、今後のサービス戦略の根幹に触れるものだった。一瞬、友人とは言え、聞いていいものなのか、と戸惑った。
「今度のハローウィンの、渋谷でのイベントまでには何とかしたい」
しかし、そんなことは微塵も気にせず、佑司は話を続けた。
『OnSTAGE-X ハローウィン・ナイト in 渋谷』
OnSTAGE-Xのユーザー拡大に向けて、ハローウィンの渋谷に仕掛ける、佑司肝入りのイベントだ。スクランブル交差点からNHKホール側までの一帯、センター街、文化村通り、公園通り、神宮通り、井の頭通りにオルガン坂。広範囲に渡り、ミリ波対応の5G基地局を設置。高速・大容量・低遅延通信による体験サービスの提供を予定していた。こうなると、大手通信事業者たちとのタイアップもあり、失敗を許されない状況だ。もちろん、この期に及んでの撤退も許されない。そこまでに、エモーショナル・レベルとアカウント乗っ取りとの因果関係をハッキリさせたい。それが佑司の思いだった。
人の感情やメンタルの状態を推し量るサービスには、雄士にも苦い経験があった。前職のHELFの時のことだ。当時、メンタルヘルスは人の健康管理のために、避けて通れないものだと考えていた。そこで、HELFに展開したのが、メンタルヘルスチェック機能。基本的な生体データに、運動量、睡眠状態、水分量などを掛け合わせて、最初は予防を促すような簡易的なものからサービスを始めようと考えていた。しかし、世間はそれほど楽観的でも、お人好しでもなかった。
『アプリにメンヘラのレッテルなんか貼られたくない』
過剰に反応した一部の大衆に扇動され、HELFの利用者は激減した。止む無く、新サービスは撤退。雄士も責任を取って、CEOを退任した。
次の時代の新しい扉を開くような、そんな価値あるものでも、時として、大衆の不理解によって、その道を阻まれることもある。これは投資家として、なんとしても克服したいポイントでもあった。そして、佑司には、自分と同じ轍は踏まないで欲しかった。
「分かった。ハードの解析できるやつ、急ぐよ」
そう言うと、雄士はボウモアのロックを一気に呑み干した。
「佑、久々だったけど、元気そうで良かったよ」 店を出て去り際、雄士はこう声を掛けた。
「…なに? 別れ際に急に、寂しんぼかぁ?」 佑司がわざと、からかう。
「うるせぇ、早く帰って寝ろ」 不器用な男も、穏やかな笑みを浮かべていた。
「寝ません! 僕はこれから朝まで仕事します!」
そう言い放ち、踵を返すと、佑司は小走りに表の通りへ向かった。
「たまには、健康のためにちゃんと寝ろよ!」
そんな佑司の背中に向かって、叫ぶ。
「篠も、筋トレばっかやってないで、ちゃんと仕事しろよ!」
負けず嫌いはそう叫ぶと、大きく手を振ってから、帰路を急いだ。
表の通りに出る手前、もう一度、振り返ると、遠くに雄士の背中があった。その背中を見送りつつ、本当にこれで良かったのか、と佑司は考えていた。
『篠を巻き込んで、良かったんだろうか』
自分自身の戦いに友達を巻き込む。そのことに、何の抵抗もなかった訳ではない。だけど、VRゴーグルの解析について信頼して頼めるのは、雄士くらいしか思い当たらなかった。
高校の時、何気に雄士を陸上部に誘った時のことを思い出した。自分より足の速いやつがいなくてつまらないから、「篠、入ってよ」と、半ば冗談くらいで誘ったのだが、雄士はそのまま陸上部に入部した。当時、雄士は本格的にボクシングにのめり込んでいた。つまり、陸上部の練習の後、ジムでボクシングのトレーニングをし、そこから24時間営業のスポーツジムでバイトをしていた。そのことは、だいぶ後になってから佑司も知った。雄士はそういう、優しいやつだった。
今回のことも、下手に巻き込んだせいで、自分には見えないところで何某かの骨を折ったり、危険を冒したりするのではないだろうか?そんな一抹の不安が、佑司の心を過った。小さくなる雄士の背中を見送りながら、それが自分の取り越し苦労であって欲しい、と願わずにはいられなかった。
4. 決戦前夜
「こういうのはね、基板レイアウト図にないパーツがあったりするのが常套ですよ」
拡大コピーされたVRゴーグルの基盤レイアウト図を睨みながら、丁寧に一つ一つパーツを追う。雄士の紹介で派遣されてきたエンジニアは、とうに還暦を過ぎてるようなおっさんだった。老眼が酷いのか、タイプの違う虫眼鏡を何本も持っていた。
「見た目は胡散臭そうだけど、腕は確かだ」と、雄士のお墨付きがあるとは言え、平均年齢33歳のOnSTAGEを束ねる佑司としては、この人、本当に働けるの?なんて、疑う気持ちもゼロではなかった。その時、「はい、ここね」と、まるで自分の疑いを見透かすかのように、おっさんがデバイス基板のある部分をピンセットで刺した。
「ちっちぇーですけど、こりゃ、外付けのメモリか何かですね、ちょっと見てみましょ」
おっさんが合図すると、エンジニア・チームが加速試験用のツールを作動させる。OnSTAGE-Xのリリース前に、仮想的にエモーショナル・レベルを上げて、プラットフォーム側とVRゴーグル側の動作試験を行ったツールだった。
おっさんは、持ち込んできた計測器のプローブの先を、虫眼鏡を使いながら器用にメモリチップの横に当てた。どうやら、その辺に配線があるらしい。その間、エンジニア・チームがエモーショナル・レベルを仮想的に上昇させ、ある閾値を超えだしたところで、おっさんの計測器の針が揺れた。
「ほぉ、ビンゴですよ。おそらく、エモーショナル・レベルがある閾値を超えると、このメモリチップとの通信が開始される仕様ですね。デバイス側のCPUに予め組み込まれているコマンドなので、プラットフォーム側とは独立して動作するんでしょ」
おっさんの手際の良さにエンジニア・チームから感嘆の声が上がる。最初は、疑ってた佑司も、積極的に身を乗り出し始める。
「あ、ありがとうございます…でも、プラットフォーム側とは独立して動作するってことは、当座の手当ては厳しそうですか? 最悪、ゴーグルの全回収とか…」
「いやぁ、それはなんとかなるんじゃないかなぁ…なぁ、にいちゃん」
おっさんにそう声を掛けられると、CTOの笹木がデータらしきものを持って現れた。笹木に依ると、エモーショナル・レベルの値はまずプラットフォーム側に送られ、プラットフォーム側で認証されてから、システム全体で使われるらしい。つまり、プラットフォーム側で常に、エモーショナル・レベルの値をダウンサイズするように仕組みを変えれば、不明動作を誘発する値を回避することが可能なのだ。OnSTAGE-Xのリリースに向けて、このシステム全体の仕様を決めたのは、当エンジニア・チーム。まさに、エンジニア・チームのみんなのホームランだった。
「グッド・ジョブ!だよ、マジで、みんなありがとう」
思わず、喜びの声を上げる。気が付くと、佑司はエンジニア・チームのメンバーにハグしまくってた。さすがの佑司も、今回ばかりはアウトかもしれないと、腹をくくっていた部分もあったのだ。とりあえず、光明は見えた。後は進むだけだ。
「まぁ、もう少し、他にも妙なところが無いか、潰しておきましょう」との、おっさんのアドバイスにより、更なるデバイス側での解析は、期限ギリギリまで進めることとした。並行し、プラットフォーム側でエモーショナル・レベルのダウンサイズの仕組みを特急で作る。
佑司にとって、エモーショナル・レベルをダウンサイズすることは、正直、残念でならなかった。しかし、背に腹は替えられない。経営者として、今、個人的な感情はどうでもいいことなのだ。
「社長さん、一つゴーグル、解析用にうちのラボに持って帰ってもいいかい?」
おっさんから、このメモリチップの中身まで、ちゃんと踏み込んで解析した方が良いと、提案された。根本要因の解明、そして、真相の究明には、このメモリチップに何が入っているのか?そこまで解析してからの結論付けだと言う。
「万一、ヤバいものでも出てきたら、まぁ、相手側にそれなりの賠償金請求できますよ」
おっさんの言葉に、改めて身が引き締まる。
そうだ…、まだ終わっていない。
これは絶対負けられない戦いだから、やれることは全てやる、と誓ったんだ。イベントの直前ギリギリまで一つも手を抜かない。改めてそう決意する佑司だった。
5. ハローウィンの悪夢
その日はなんだか、朝から街が騒々しかった。
「そりゃ、ハローウィンだから、しょうがないっすよ」
木田に話しかけると、そんな感じで冷たくあしらわれた。ハローウィンだろうが、クリスマスだろうが、イベント事には全く無頓着の雄士だったが、その日は不思議と心がざわついた。理由は分かっている。今日は渋谷で、例の佑司のイベントが行われる日だからだ。
さっき、昼のバラエティ番組に出演しているところをテレビで観た。局のアナウンサーに話を振られ、「はい、そうなんです。今日夕方17:00から渋谷でやります。リアルとバーチャルが融合した新しい体験に是非、期待してください」と、爽やかに笑顔を振りまいていた。
その笑顔が返って、雄士の心に針を刺した。世間が切り撮ったその爽やかさの裏には、昨日までの血ヘドを吐くような準備がある。それをおくびにも見せない佑司の胆力には、正直、脱帽するしかなかった。
エンジニア・チームが全てのチェック工程を終えたのは、今日の未明だったと聞いた。
『不具合を起こさないことを証明する』
これは悪魔の証明だ。如何なる証明も「無いことを証明する」ことは原理的に不可能だ。可能な限り「無い」という証明に近づけるには、何通りものCase Studyを実施するしかない。OnSTAGE-Xの場合、その分岐は何万通りにもなったであろう。仮に一万通りのシーケンスを100秒で処理したとしても、寝ずに演算を回して、十日は掛かる。イレギュラーなシーケンスなら、一部、マニュアル作業も免れない。そんなタフな作業を、わずか一週間強で成し遂げた。雄士としては、OnSTAGEと言うチームの機動力の高さを見た思いだった。加えて、佑司もその間、ボーっとしていたわけがない。関係各処への接待、根回し、スタッフとの協議・準備・リハ、と、いつもよりさらに輪をかけて、寝てないに違いない。
そんな大勢の人間の苦労に、自分も一枚噛んでいる。しかも、肝心要のハードウェアの解析で。何か見逃した部分はないか? 解析結果に、もっと踏み込んでサジェスチョンできる部分があったんじゃないか? そもそも、あの職人に発注して良かったのか? 自分の判断に対する振り返りが後を絶たないのは、いつものことだ。でも今回は、自分だけが傷を負えば済む話ではない。それが、雄士の心をざわつかせているものの正体だった。
ざわつく心を落ち着かせようと、ブラインドを開けた。気が付けば、もう夕日が沈む時間帯だ。十月に入ると、日の入りは日一日と早くなる。イベントの開始時間まで、あと十分たらずに迫っていた。
「…あっれ、篠さん、ちょっといいっすか?」
木田に呼ばれたついでに、仕事モードに戻ろうとした時だった。木田の持ってきた情報に目を見張る。
OnSTAGEの株主比率が…、変わってる?
それは、素人目には見逃してしまうほどの僅かな差だった。筆頭株主は、創業時に親会社だったSaaSの大手De-Galaxyで変わらない。しかし、保有率20%を僅かに下回っている。これは、「その他」に分類されるようなロングテール(個人投資家)に何がしかの変化の兆候があることを物語っている。
…なんだ…? 一体、佑司の周りで何が起こってるんだ…?
雄士が思考回路をぶん回し始めた、まさにその瞬間、職人からの一報が鳴った。
「あ、篠田さん? 例のメモリチップ。暗号の解読に時間掛かっちまったけど、結局、何にも出なかったよ。ただの表示系のコマンドの繰り返し…くらいしか、読み取れなかったね…なんで、メインCPUの方をね、外からデバック仕掛けて一通り見てみたよ。そしたら、どうしても外から見えない部分があって、ま、それもそのうち、」
皆まで聞く前に、スマホを切って、飛び出した。
表の通りから直ぐにタクシーを拾った。完全に日が沈み、暗くなった東京の街を渋谷へと急ぐ。その日は、渋谷に近づくにつれ、人も車も密度を増した。駅のだいぶ手前から既に大渋滞だった。「降ります」と運転手に告げると、釣りはもらわず、無造作に千円札を置き、車を出た。人込みを掻き分けて、スクランブル交差点を目指す。
…どこからともなく、救急車のサイレンが響き渡る。
そして、スクランブル交差点の前で行く手を阻まれた。TSUTAYA側には何両もの警察車両が停車し、救急車が次々と通りの奥へと向かっていた。雄士には、これが佑司と無関係でありますように、と祈ることしか出来なかった。
6. 決意と信念
十二月に入ると、だいぶ気温も下がり、季節も一気に進む。そのせいで、珍しく風邪でも引いたのだろうか。佑司は朝から、乾いた咳をしていた。
「…集団ヒステリー状態?」
警察の報告に、一瞬、耳を疑った。それは、自分のビジネスとは一生縁が無いと思っていたようなものだった。今まで、いろんな逆境を乗り越えてきた…そんな佑司でも、あのハローウィンは、まさに悪夢としか言いようがなかった。
あの日、17:00ちょうど。イベント開幕の発声と共に、バーチャル花火が渋谷の空に打ちあがった。OnSTAGE-Xを目当てに集まった1,000名の観客は、思い思いに、イベント対象エリアへと繰り出した。通りにはゾンビによるバーチャルパレードや、空中にはJ-POPアイドルたちによるバーチャルライブも展開。観客は皆、初めての体験に興奮しながらも、イベントは和やかに進行していた…はずだった。
イベント開始から30分ほど経った頃だ。最初の異変は、PARCO横のペンギン通りで起こった。ゴーグルを掛けた数人が乱闘している、との一報が入った。最初はちょっとした、ユーザー同士の小競り合いだと思っていた。しかし、乱闘騒ぎは次々と飛び火。イベント対象エリア一帯で、騒ぎが勃発し始める。ほどなくして、過呼吸などで倒れる人が相次ぎ、痙攣や意識喪失などの最悪ケースも発生し、まさに、パニック状態だった。
…へっ、くしゅん!
寒気と共に、くしゃみが出た。いつもは薄着の佑司でも、今日はさすがにTシャツの上からウールを着ていた。温まるから…と言って、ルミさんがジンジャー・ティーを煎れてくれたので、休憩がてら、外を眺める。通りの樹々もだいぶ枯れ始め、冬準備をしてる姿を見ると、柄にもなく、少しだけ寂しさが込み上げた。
あれ以来、雄士からは音沙汰が無く、佑司の心には、小さな疑問が湧き始めていた。
あれだけのCase Studyを潜り抜けて、何故、トラブルは発生したのか?
そもそも、不具合解析の方針が間違っていたのか?
だとすると…デバイス解析のおっさんが、わざとブラフを掴ませたのか?
考えたくないけど…篠は、実際のところ、何か知っていたのか?
確かに、渋谷の事件以来、佑司も全く余裕がなく、雄士に連絡を取るどころではなかった。関係各処への謝罪と膨大な事後処理。いよいよ持って、OnSTAGE-Xのサービスも一旦停止せざるを得なかった。今まで寝てなかった分のツケが一気に回ってきて、倒れそうなのを必死に堪えた。
ただ、幸いにも、渋谷の事件とOnSTAGE-Xとの因果関係は立証されなかった。リリース前の検証データに加え、今回のエモーショナル・レベルに特化したCase Studyの膨大なデータを提出したことが功を奏した。推定無罪。厳しめに見積もるとそんなところだろうが、有罪確定にならなかっただけでも有難かった。
ミリ波対応5G基地局の展開を狙う、大手通信事業者との契約が白紙に戻ったことは、百歩譲って良しとしよう。ああ言う輩は日和見だから、形勢が変わればまた状況も変わる。それより何より、一番許せないのは、Beyond X社だ。今回、日本のマスコミが彼らを特に叩かなかったのをいいことに、彼らからは一切の謝罪がなかった。それどころか、ゴーグルを全て自主回収し、自社で独自に解析をすると言い出した。OnSTAGEは、彼らに対し、第三者機関への解析を依頼するように要請したが、契約上、ゴーグルの製造責任元は自分たちにあることを主張し、こちらの要請を退けた。
…あいつら、絶対、クロだな。
佑司は自分の直感を信じた。何故なら、自分が一番、OnSTAGEのことを信じていたからに他ならない。OnSTAGEは、佑司が人生を賭けて、志を同じくする仲間と立ち上げたサービスだ。だから、ユーザーには、絶対あんなこと言わせない。
「殺さなければ、殺される」
警察の聞き取り調査に対し、パニック状態に陥った人の過半がこう答えたそうだ。
何だ…これは。
OnSTAGEに浸入したこの異物が、自分たちのプラットフォームを汚したことを、心底許せなかった。絶対に、こいつの正体を突き止める、と固く心に誓った。
…へっ、くしゅん!
本日二回目のくしゃみが出たところで、ルミさんに呼ばれた。CFOの高田も一緒だった。
「加賀さん、さっき、EDINETに…」
乱暴に鼻をかむと、佑司は高田の示すデータを確認した。TOB(株式公開買付)。そこには、国内外、数社の大手証券会社から、OnSTAGE株に対する大量の買付予定数が公告されていた。寝耳に水ではあったが、佑司は前職の経験から、こういうこともあるかな?…と想定の範囲だった。
「…足元見やがって、このやろぉ」鼻声が、辛辣な発言もオブラートに包んだ。
今、現在、OnSTAGEの株価が市場で値を上げる要素は何もない。むしろ、ロングテールの個人投資家は、このまま値を下げる危険性があるなら、いっそ、TOBに応募しようかと考えるだろう…そうか、それを逆手に取って、自社株を一気に回収する手もある!
「ホワイトナイト。昔のツテを頼って信頼できるところに、これより高値でTOB出してもらうよ。」
CFOの高田が頷いた。
一瞬、雄士のWEL-BEの名前が頭を過ったのは否定しない。でも、今は何となく、雄士には頼らない方が良いような気がした。雄士に負担を掛けたくない?…いや、違うな。確かに負担を掛けたくない気持ちもある。でも、どちらかと言うと、今、自分が100%、雄士を信じ切れていない。…この本音には、佑司自身が驚きを隠せなかった。
「あ、あと。…上場廃止しよう」
これには、高田もルミさんも驚きの表情を見せた。
「え…、でも、せっかく苦労して上場したのに…、いいんですか?加賀さん」
もちろん、佑司には考え有ってのことだ。上場廃止予定なら、個人投資家がそのままOnSTAGE株を保有し続けるモチベーションもかなり下がる。ここで一気に信頼できるところに回収させ、暫くは、非上場で体制を立て直す。一見、逆境だが、ある意味、良い機会だと思っていた。
―――さらに高くジャンプするための踏み込み
負けず嫌いの自分を、本当に心底褒めたいと思った。
7. 過去の亡霊
証券会社数社から、OnSTAGE株へのTOBが出た翌日。米国で注目されている、新鋭Venture CapitalからもTOBが出た。これは、佑司の手駒。いや…むしろ、さすが良くやった、としか雄士には言いようがなかった。さらに、翌々日に出た、OnSTAGEの上場廃止宣言。これにはやられた。佑司がここまで仕掛けてくるとは、さすがの雄士も想定外だった。
「さすが、篠さんのお友達っすねぇ」
ちょうど、木田とOnSTAGEの状況を確認している時だった。その来客は現れた。
「篠さん、いやぁ、お久しぶりっすね」
一見、堅気に見えないその風貌に初見は誰でも驚く。木田も例に漏れず、少しビビっていた。しかし、雄士の知る限り、彼が犯罪に手を染めたことはない。むしろ、その逆だ。いつも犯罪に巻き込まれる危険性と戦っていた。そのためなのだろうか。いつも紙一重の場所に居る。そんな環境が彼の風貌に影響を与えていたのかもしれない。
「すんません、ちょっと時間掛かっちゃったすけど、まぁ、中身は確かなんで。ご確認を」
と言って、彼は腰かけるないなや、厚みのあるA4封書をテーブルへ置いた。木田にタリーズを頼んで、少し離席してもらうことにした。
「え、スタバじゃダメなんですか?タリーズなんですね?」
近くにタリーズは無いから、30分は時間を稼げる。木田は、眼鏡をガシガシさせながら、ちょっとゴネていたが、雄士に宥められ外出した。木田が出て行ったことを確認すると、雄士はその封書の中身を取り出した。
『Beyond X社 調査報告書』
雄士が待ちわびていた情報だった。
Beyond X社―――その前身は、1993年に設立された、GPU(Graphic Processing Unit)のファブレス設計会社、mVISION社だ。mVISIONは2000年代前半、SONYやMicrosoftなど、世界的TVゲームメーカー向けのグラフィックチップを手掛け、その分野で次々とヒット商品を展開した。2000年代後半には、GPU向けソフトウェア開発基盤を業界に先駆けリリース。一躍トップベンダーに躍り出た。さらに、2015年。それらの設計資産をベースに、エンド・デバイス向けのディープラーニング・チップの販売を開始した。そして、2020年。VR・ARゴーグルなど、AI搭載型アプリケーションに特化したベンダーとして、親会社のmVISIONより独立し、現在に至る。
表向きは至って、堅気の会社だ。雄士はページを捲る手を進めた。
現在のBeyond X社 CEOのDavid Chenは、MIT(マサッチューセッツ工科大学)卒の秀才で、2020年の独立以来CEOを務めていた。これと言って、黒歴史は無さそうだが、出自が華僑なことぐらいが気になった。両親を始め、親族はシンガポール在住。所謂、育ちが良く、優秀な中国系シンガポール人と言ったところだった。
「典型的なシリコンバレー・スタートアップのサクセス・ストーリーって感じだな」
雄士には珍しく、少し嫌味も交えて言ってみた。
「いや、篠さん、その次。株主構成表を見てくれ。なかなか手に入れるのに苦労したよ」
筆頭株主は元親会社のmVISIONで、20%強。その他、米国の有名どころの投資会社が名を連ね、4割強を無数の個人投資家で構成されているようだった。どこかで見たことある構成表だな?…と思った瞬間、OnSTAGEのそれと良く似ているんだ、と気づいた。
「米国独特なのが、ここ」
と彼が指差した先に、8%ほど保有する大株主が居た。
「これ、米国政府筋、御用達のところ。ってことは、一枚絡んでるってことだよ」
絡んでるって何を?と雄士が聞き返すと、彼はスマホの画面に何やら文字を打ち始め、打ち終わるとその画面をこちらに向けた。
『軍事転用』
雄士は息を呑んだ。平和ボケしている日本じゃ、どこか遠い世界の話だと思えてしまっても仕方がない。ただ、世界はネットで繋がり、様々な情報が共有できるようになった今。技術の国際的な格差も縮小し、日本が軍事転用技術に巻き込まれる可能性もそれなりに低くはないのだろう。
「OnSTAGEの(技術の)どの部分を狙ってるんだ?」
この問いに対して、彼は小さく首を振った。この部分だけは、どうも紐解けなかったようだった。
「それより、次の写真。これは、篠さんにとって、朗報か、訃報か。どっちだろう」
彼に促され、次のページを捲ると、関係者らしい人物の膨大な写真が添付してあった。その中に見覚えある一人を見つけた時、雄士は驚きを隠せなかった。
「…過去の亡霊か」
そんな言葉が思わず、口を突いて出た。
彼は「長居は無用」と言って、木田が帰ってくる前に立ち去った。戻った木田は「あれ?あれ?お客さんは?…どうしよぉ、このモカマキアート」と戸惑っていたが、全てを察したのか、彼諸共ここ1時間くらいの出来事を全て忘れて、仕事に戻った。
雄士は、律儀にも木田が買ってきてくれたエスプレッソで一服しながら、思考を整理した。
一見、ホワイトに見えるBeyond X社だったが、雄士の耳には質の悪い噂も入っていた。
それは、最近どうも、彼らが業務提携から買収を仕掛けてる傾向があるとの話だった。
この裏には、技術の軍事転用に絡む何かがある…今日、分かったことだ。
加えて、その研究開発には、雄士の知る人物が関わっていた…衝撃の事実だった。
Beyond X社の関係者の写真には、嘗て、HELFのエンジニアだった男がいた。コミュ症で孤立しがちな男だったが、自らが見込んだものへの探求心や研究心の熱さには、雄士も認めるものがあった。
あれは、例のメンタルヘルスチェック機能を、初めてHELFの経営会議の議題に上げた時のことだ。賛否両論、いろんな反応があった中で、その男だけが異様に前のめりだったことを覚えている。
人間の感情は、ポジティブ-ネガティブの両輪を合わせて初めて、バランスが取れるものだと、雄士は考えていた。しかし、その男は、人間のネガティブな感情にのみ異様な関心を寄せていた。妬み、嫉み、恨み、憤怒、恥辱、悲しみ、不安、疑い。確かに、それらがメンタルヘルスに支障をきたす要因であることは否めない。しかし、それらにのみフォーカスし、抽出する機能。メンタルヘルスチェック機能をそんなものにはしたくない。当時の雄士はそう考えていた。
HELFがメンタルヘルスチェック機能のリリースを断念した背景には、大衆からの反感の他に、実は、研究開発を一旦凍結する目的もあった。
『ネガティブな感情のみに感応し、それらを増幅する機能』
当時、最終段階で、その男はそんな研究領域に踏み込んでいた。危険だと、雄士は直感した。程なくして、雄士もCEOを退任。その後、その男がどうなったのか?を全くトレースしていなかった。そのツケが、今頃回ってきたみたいだな…と、古傷が痛んだ。
佑司に会わせる顔がないな…
最初に頭に浮かんだのは、そんな言葉だった。
VRゴーグルには、もっと深い闇が隠されている。
その闇を暴ききれなかった。加えて、何故、Beyond X社がOnSTAGEを狙っているのか?この理由も未だ明らかに出来ていない。
佑司と会って、一旦、全てを話すべきか?でも、一度、ブラフを掴まされて失態した自分を、佑司はどこまで信用するだろうか?人間同士の情の信頼と、起業家としての実力への信頼を混同してはいけないような気がしていた。正直なところ、雄士も何が正解なのか、分からなくなっていた。
まずは…、買収を阻止する。
暫くの間、目を瞑って考えを纏めた後、心は決まった。一旦、WEL-BEがOnSTAGEの経営権を預かる。幸い、OnSTAGEは上場廃止宣言を出した。正式に廃止となるこの一か月間が勝負だ。一旦、敵対的TOBに見せる。それがカモフラージュだ。
「木田。ごめん、一生のお願い。ちょっと、話せるか?」
雄士がこう木田を呼ぶと、木田は眼鏡を外して席を立ち上がる。木田の眼鏡は伊達眼鏡だ。雄士の傍らでいつも飄々としている木田だったが、木田にはこんな都市伝説があった。
『木田が眼鏡を外す時は、嵐が起きる』
雄士は、自分の最高の右腕と共に、動き出すことにした。
8. 一騎打ち
雄士は、戻ってきた木田と社で合流した。さすがに一月ともなると、早朝は底冷えする。寒いのが苦手な木田だったが、なんとか未明から動いてくれていた。証券所の取引開始は9:00ちょうど。その時間から早速、買いを始める。その準備を直ぐ、木田に進めさせた。
「篠田さん、ちょっといいですか?」
そんなバタバタしていた矢先、ファンドの共同経営者である瀬名が尋ねてきた。雄士にはこの後の展開が容易に読めた。ちょっと、勝手をやり過ぎた。瀬名が言いたいのはそんなとこだろう。
「篠田さん、ちょっと過ぎやしませんかね。まぁ、あなたのことだから、止めたって無駄なんでしょうけど、事前に説明くらいあってもいいと思うんですよ」
雄士には、悪い、と謝ることしか出来なかった。と言うよりも、ここで瀬名と争うことで、時間を無駄にしたくなかった。
「とりあえず、言うべきことは、言いましたからね」
と、瀬名は捨てセリフを吐いて、部屋を出ていった。若干の違和感が残った。瀬名があっさり引き下がったこともそうだが、最後のセリフに別の意味があったような気がした。
OnSTAGEのミーティング・ルームは、若干のザワザワの中に冷たい緊張感が走っていた。WEL-BEのCEO篠田は、皆知っての通り、当社CEO加賀と親交のある人物だ。なので、これをどう考えていいのか?社員たち自身も迷っていた。WEL-BEは敵なのか?はたまた、新しいホワイトナイトなのか?皆、固唾を呑んで、佑司のコメントを待っていた。
「WEL-BEの、51%到達は死守する」
佑司の一声に、ミーティング・ルームの外の社員たちからもどよめきが上がった。「え、友達じゃなかったの?」と、口走る者も居た。死守する、という佑司の発言に、取締役を中心に、HOW?の声が上がった。
「ポイズンピルで行く」
ミーティング・ルームの外も中も、心拍数がMAXになる。
「上場廃止まであと3日程度だ。この3日間をなんとしても乗り越える」
佑司は最後の最後まで諦めていない。皆、それを理解すると各々の持ち場に戻った。人事だろうと、総務だろうと、営業だろうと、開発だろうと、各々の立場でやれることがあるはずだ。佑司の知らない間に、OnSTAGEはそんなチームになっていた。こんな時でも、最高だ、と感じられる自分のメンタルの強さに感謝した。
「De-Galaxyとオンライン・ミーティング設定して」
CFOの高田にそう頼むと、どう交渉するかの立案を始める。元親会社とは言え、自立した子会社にそんなに甘くはないだろう。新規予約券は、今の持株比率に対し5%増くらいがリミットだ。10%から交渉して、7%で呑んでもらえれば、ラッキー。5%は死守。そんな感じで戦略は決まった。
戦略が決まったところで、不思議と雄士に連絡したくなった。うそ、まさかでしょ?と自分でも思った。これから戦う予定の相手だ。それは重々分かっている。でも不思議なことに、この高揚感を誰かと分かち合いたい、そう願っている自分が居た。
スマホを取り出して、LINEしてみた。既読にはならないだろう、と思った瞬間、
「残り3%ってところで、名乗るのが潔いだろ?」と、返信が来た。
会社の経営権を巡っての戦い。
経営者の自分としては、ギリギリ歯ぎしりするような思いだ。
だけど、親友との一騎打ちでもある。
この勝負に絶対勝ってやる、そんな無邪気な競争心に心躍っていた。
「上等だ!望むところだ! 勝負はここからだ!!」
負けず嫌いはビックマーク多めで返信を返すと、交渉に向かった。
9. 奈落
勝負は一進一退の攻防を極めた。
まずは、佑司が新株予約権の発行で、De-Galaxyの持株比率を25%まで引き上げ、WEL-BEの持株比率を45%まで後退させた。続いて、雄士が個人投資家たちの積極的売りを買い上げ、47%まで立て直す。翌日、今度は雄士から仕掛けた。保有率の高い証券会社の一つを落とし、そこからの買いで50%を超えた。この間、OnSTAGE株価は上昇し、二日目はストップ高で終了することとなる。
そして、運命の最終日。佑司はさらなる新株予約権を発行し、De-Galaxyの持株比率を27%まで引き上げ、WEL-BEの持株比率を49%まで後退させる。ここで、暫く、両者にらみ合いの拮抗が続いていた。
「スタバなら近いのに、またタリーズですか?」
と、文句を言う木田に好きなものを奢って、雄士は社に戻るところだった。午前の買いから、午後にはまだ目立った動きがないが、佑司の方は既に、持ち駒は全て使いきっているはずだ。なので、次、仕掛けるなら取引終了のギリギリだ。そのタイミングを見計らっていた。
社に戻り、いつものように、ドア・セキュリティーにIDカードをかざす。ブーっというエラー音と赤いライトでFailする。あれ?おかしいな?
「何やってんですか、篠田さん。まさか、IDカードにコーヒー溢しちゃったんじゃないですよねぇ」と、ブツブツ文句を言いながらも、木田が代わって、IDカードをかざす。ブーっと同様に、木田のIDカードもFailする。
…まさか!?
ビルを出て、向かい側の通りから、オフィスを仰ぎ見る。通りに面した一番大きなミーティング・ルームの照明が付いている。
「…やられたっ…」
人生最大の迂闊だ。先日の、雄士の違和感は間違っていなかった…瀬名だ!おそらく、あの大きなミーティング・ルームでは今、緊急の取締役会が開かれているのだろう。
「木田!ネットニュース確認しろ」
雄士と木田で一通りのネットニュースをザッピングする・
『投資ファンドグループWEL-BE。現CEO篠田雄士氏、更迭か?』
瀬名の主導による、WEL-BEのクーデターだった。
その日、さすがの負けず嫌いも立ち止まざるを得なかった。午後に雄士の退任がネットニュースをざわつかせたかと思うと、取引終了直前に、ある外資系大手証券会社がWEL-BEへの大量売却を実行し、WEL-BEの持株比率は、51%を超えた。
何なんだ…? これは…
感情と情報が大渋滞だった。もし、単純に雄士に負けただけだったら、もっと清々しい気持ちだったのだろうか?この土壇場に来て、雄士はどうして退任したのか?途中で逃げたのか?それとも最初から、OnSTAGEを嵌めるつもりだったから、ここで逃げる準備をしてたのか?
いや、いい。まずは自分のことは置いておけ。雄士がCEOでないWEL-BEに経営権を取られたと言うことは、佑司の立場に保証はない。社員たちとサービスのことが心配だ。ここは絶対死守する。次のことを考えろ。佑司は自分に強く言い聞かせた。
スマホの着信音が鳴る…、雄士からだった。
出るべきか、一瞬、迷った…が、親指は通話ボタンを押していた。佑司は無言で出た。雄士も無言だった。本当は、雄士が話すまで、一言も発さないと誓っていたはずだったのに、最初に口火を切ったのは、佑司だった。
「篠っ、―――――、どうしてだっ、」
抑えきれない感情の礫を一気に吐き出すと、その感情は喉の奥で詰まり、それ以上言葉になることはなかった。
本当は先に言葉を発しようと決めていた雄士だったが、佑司に先手を取られてしまった。佑司の礫を浴びた瞬間、雄士はもう何も言うことが出来なくなっていた。
そこには、今までに見たことのない、佑司が居た。違うんだ、お前の負けず嫌いを屈服させたかったわけじゃない。俺が負けで良かったんだ。
俺は…、どこで間違えたんだ?
その時、その言葉を佑司に届けることは出来なかった。雄士は静かに、通話終了ボタンを押した。自分の大事な人たちが、多くの人たちが傷ついた。その見えない敵を、雄士は許すことが出来なかった。
…このお礼参りは、必ず、させてもらう。
雄士は拳を握りしめ、未踏の地へ旅立つことを決意した。
10. Get Back!
2025年 夏――― 東南アジア独特の匂いと湿気。スワンナプーム国際空港はハイテクで快適だったが、一歩、外に出ると、南国の気候は厳しかった。その日、佑司はタイに居た。Beyond X社の秘密も、OnSTAGEが狙われた理由も明らかにする。
失ったものを全て取り返すために。
そして、あの日以来、姿を消した親友を探しに。
< 終 >
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