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インスタのリア垢をログアウトするに至った話

インスタのリア垢をログアウトした。たったそれだけのことが私に文章を書かせる原動力になった。

はじめましての方、おはようこんにちはあるいはこんばんは。はじめましてではない方も(以下略)。簡単に自己紹介をします。書籍を読むのは大好きだけど無くても生きてはいける。映画は大好きだけど無くても生きてはいける。だけど絵を描くことはきっと死ぬまでやめられない。そして提出を強いられている場面以外では文章を書いたことがない、そんな生命体です。ようこそ。

そんな生命体が文章をcreate(アッ、すみません。出身がアッチなもので。)する媒体である「note」をわざわざ作成する原動力になった「インスタのリア垢をログアウトした」原因にいたるまでの自己分析(無駄に長い)などをつらつらととりとめのない文章で書いているだけの記事です。

なぜ「書いてみよう」と思ったかというと、感じたことを、未来の自分に思い出してほしいから。この記事を見てくださった誰かにアンサーを求めているから。まぁいろいろあります。

先に言うとまとまりもなく、きっと言っていることも支離滅裂で、日本語もおかしいんだろう、自分で書いてみてなんですが、読むに値しない記事なので、もし全部読んでくださった方がいればそれは本当に人と真摯に向き合える人なのではないかな、とそんな気がします。


自粛ガチ勢という言葉から生まれた自己分析


3月から(私が認識する限りでは)日本で蔓延しだしたコロナウイルス。それによってTL上で「自粛ガチ勢」という言葉をよく聞くようになった。はじめてそのその言葉を見たとき、拭いきれない違和感を言葉にできなかったが、友人から「私とあなたは自粛ガチ勢やんな~」と何気なく、気軽に言われた時に、定義がよくわからん言葉であたしを一括りにすんな、そう思った。(しかもその友人は一番ピークにヤバイ時に美容院に行っている。私からするとどの口が???って感じぃ~~~)

そう、私は「マストではない場で周囲と同調する」そんな人間が、風潮が大嫌いなのだ。分かりやすく伝えよう。

鳥の巣で 金ロー同じ 時間帯 一斉に呟く 無駄「バルス」。

は~~~~~めちゃんこ嫌~~~~い!!!!そして私は気づかないふりをしてそのタイミングで「たまごってなんでたまごって言うんかな」とかを呟いて大衆とは違いますよアピールをするような、小さいことで自己陶酔を感じる人間なのだ。言ってて悲しくなってきた。誰かそんなことないと思うよ(あさって)と言ってくれ。別に救われね~けど。

私が私で生まれたからには、私と認識して思惟しながら生きてきたからには、他者とは違う人間でありたい。そんな一周回って誰でも思うようなことを本気で感じている人間なのだ。

だからこそ「自粛ガチ勢」という人から見たよくわからん物差しに自分がまとめられるのが嫌だし、今おうちにいることが「しなければならないこと」だととらえてる人たちのネタの象徴みたいな言葉(これは私見です)に、「私」が一括りにされるのが嫌だった。

誰かにとっての大切な人である「誰か」にうつさないためにも、私を大切だと思ってくれている「誰か」のためにも、さらに一番大事な「自分」のために。うつす可能性があるのなら、その逆も然り、コロナによって、今までとは違う世界になったと認識して、自粛生活を「したい」と考えてるのに「ガチ」っておかしくね?こちとら「当たり前」の考えですが?みたいな攻撃的な暴論しか出てこんのや。基本私が思うことは暴論なのは重々承知なんスわ。


何事も70点だがそれで良かった


勉強も運動も音楽も趣味も料理もたいてい70点女。そう自負して今まで生きている。友達が多いわけではないし、少ないわけでもない。

それをさみしいとも思うし、突出した才能をもつ人や、一つのことに対してストイックな人のことを心の中で師匠と呼ぶくらい尊敬している。だけど自分に置き換えるとそこまでしなくてもいいか~~で終わっちゃう怠惰なやつなのだ。私の口癖 want to~ 苦手なこと それはDo~ (名言では?)

いわゆるめんどくさくなっちゃうんだな~上達するには練習あるのみじゃないですか。でも何も考えずに練習しても時間の無駄じゃないですか。きっと頂点を目指していけるひとは、こうなるためにはこの過程が必要だから、自分はこうしなければならない。っていう過程を考えてストイックに行動できる人だと思ってるんですよ。私はそれができない。人がうまくなる過程の一つである、「人並にできるようになった」そこで満足してしまう。あとはもうめんどくさいんですよね。きっと描かないと生きていけない絵も「うまくなりたい」とは思うけど、「描きたいものをまぁまぁ描けるしな」で怠惰に続けているだけなのだ。

でもそれでよい。それがよいんだ私には。

何事も70点なもんだから友人関係ものめりこまず離れすぎず、自分にとってちょうどよい距離感を築き上げれているのではないかと思っていた。


言葉ではなくテンションで会話をしてきた人生


前述したとおり、私は友達が多いわけでも少ないわけでもない。どちらかといえば浅く広くだし、どちらかといえば深く狭くである。ほ~~~んと平均よりチョット㊤~~って感じ。

私の7割の友人に対する認識は人生の少し空いた時間を埋めるツールだと、思っている。今これを打ちながら気づいた。これはいわゆる私の中での「無くても生きていけるもの」に入っている。

だから自分の中の自分を見せずに大衆に対する私を見せる。演じているわけではないが、家族・友達・恋人・自分だけの自分、それぞれ少しずつ異なった私がいる。けれどもそれはどれも全部自分で。一種の多重人格のようなものだと認識している。

友達に誘われて本当に嫌じゃなかったら遊ぶし、本当にたまに自分から遊ぼうと誘うこともある。一緒に遊んだ時は心の底から楽しく、バイバイをするときは心の底からさみしい。やっぱり友達大好き、とかまた会おうなんて、空々しい言葉を紡いでしまう時もある。

それでもやっぱり自分だけの自分が一番「私」だから、その姿を友達という一種のツールに見せるなんてことは今までしたことがなかった。難しいことを考えず、人と「その時」を楽しむ私で接するのが一番効率的で自分にとってプラスだった。

そんな感じで友人と距離を取っているから、7割の友人からの私の印象は『二人きりで遊ぶには話すことがないけど、大勢で遊ぶにはまぁまぁ盛り上がるネタ的要員』なんだと自分では認識している。(これ全然そんなことなかったらめっちゃ恥ずかしい)

「人当たりがよく」「適宜ノリがよく」「何も考えてなさそう」「まともではない」「IQが低い」と認識してる友人が多いと思うんだよな~~。ここらへんは憶測。再度言うが、決して演じているわけではない。こういう私がいるのも本当。きっと大衆向けのムリをしていない私っていう人間はこれ。

だけど7割の友人が知らないだけで、私の中だけの私はいままで口だったり、投稿だったりで思惟を呟いていないだけで実は今までいろんなことを考えてきたし、感じてきた。

それはなぜかというと、考えを言葉にすることが何よりも苦手だからだ。

さて、ここまで読んでくださった方、いますかね?本当にありがとうございます。こんな稚拙で人に何も与えないただの自分語りをここまで読んでくださっている方は忍耐力がバケモンな人かよっぽど暇な人の二択なのでは?と思っています。

どうですか?私の文章。そう、まとまりがないでしょう~~~~困ったもんですよ全く。ほんっっっっっとに書くことが、まとめることが苦手なんですよ。起承転結を何も考えずに感じたことをそのまま話す害悪オノマトペ関西人ですよオチつけた話したことないスよ。

こんな私がSNS上で自分の中の考えを言葉で表現するようになったのは、三次元に推しができたからである。


New Verse


ここまで長々と私語りをしているが、考えすべてを自分一人で導き出したわけではない。人生の節々で出会った人や好きなもの、感じたことがあったおかげで今の私がいて、考えがある。納得したことに関して、自分の考えを覆せる柔軟さ、悪く言えば周囲に影響されやすく定見がないという一面もあるのだ。これは考えの進化であったり見方を変えて知った一面を受け入れているので同調とは別物だと認識しているのですが、そこんとこどうかな?矛盾してるなこいつと思われたならそれまでだ。私とあなたは別の道を歩もうぜ。諦めないなら、受け入れあって一緒に進もう。

私は小学生から漫画をずっと読んでいて所謂ヲタクなのだが、(アニメとかは見ないいわゆる微妙な立ち位置のヲタク)2018年12月にとあるパフォーマンスグループを知ってからは、3次元にずぶずぶ染まっていってしまった。(いつかこの話書きたい)そしてこれが私にとって、音楽との、言葉との出会いだった。

そのグループは私が知った時には各々が既にソロとしてもデビューしていて、それぞれの位置で活躍していた。そしてメンバーの一人である、とあるラッパーの活動、音楽、思考、言葉、曲。これらすべての作品を通してその人の人間性に魅了されたのだ。

その人の考え方や言葉は私にとって青天の霹靂であり、レクイエムだった。そう、私の中で渦巻く私の異見は死んでいたのだ。

それをもっと出したい。今まで私の一部しか見せてこなかったけれども、もっと私のことを知ってほしい。SNSで繋がっている他人以上友人未満な人たちに自分の中の自分を伝えたいと、そう思うようになったのだ。


何があったかは特に重要ではない


ようやく本題に入る。ここにたどり着くまでに2時間かかった。一度今までの文章を読み返してみたら何の話をしてるのだと5回思った。それでもここまでたどり着いたのは自分にとってはすごいことで、めんどくさくなりつつも諦めなかったことへの達成感を感じている。今までの文章の伏線回収を自分でしている。すごい!SGI!Do!

私は自分のINSTAGRAM(アッ、すみません。出身がアッチなもので。どこだよ。大阪だよ)が好きだ。特におしゃれな写真をあげているわけでもなく、インフルエンサーなわけでもなければ、誰かにとって有益なものをあげているわけでもない。それでも自分なりのルールを設けて投稿を続けたマイページは、自分で見る分には美しかった。

自分を貫いている自分がとても好きで、だれも気付かないかもしれないということをコソっとするのが好きだ。

それはもしかしたら誰かが気づいてくれるかもしれない。という他者に対する期待と、それをしている自分自身への傾倒なんだと思う。これは何回でもいうが私は、自分を貫いている自分が好きなのだ。

そんな私のことを知ってほしいし、なによりも認めてほしかった。私が人に憧れて意識が変わったように、誰かにとっての私もそうでありたかった。でも今思えば一番は「個としての異見を持っている自分自身の啓示」という自己陶酔だったんだろうと思う。私が神だ。

最初はふと思っただけだった。昔はビールや珈琲が飲めなかった私が、ウォーターサーバーの営業に対して話を聞くこともなく必要ないですと突っぱねていた過去の私が、今では毎日水を2リットル飲むようになり、美味しい珈琲の淹れ方を思案するようになったと、日々の成長や時の流れを実感したのだ。

感じたノスタルジーを「1-800-273-8255/logic」にあわせて投稿した。消しちゃったんで忘れちゃったんスけど「時は残酷にやさしく進む」的な内容と共に。は~いこれも自己陶酔の一つです!試験に出るよ~★

私は小説を読むのは好きだけど、その人の文体とか、言葉の紡ぎ方を読んでいるわけでなく、登場人物の感情の機微だったり物語の行方を読むタイプの読書人である。だから本を読む人であるにも関わらず言葉を紡ぐのが苦手だし、文章の奥深さというのを理解しているわけではない。

だけど推しに出会ってからは、音楽をメロディだけでなくリリックで聴くようになったし、固定されたアーティスト、国だけでなく様々な音楽を聴きたいと思うようになった。自分自身を投影したリリックを描いて形にする人や言葉を紡ぐ人たちのことをもっと知りたくなった。

言葉とはなにか、どう必要でどう扱えば伝わるのか。その答えを導き出したかった。

そんな気持ちで買ったBRUTUS 2019 8/5号 特集「ことば、の答え。」(話はそれますが、インタヴュー内容ももちろん、遊び心がある記事の書き方がとても特集とマッチしていてとてもおもしろい!それに私みたいな文字を読むことしかできない人に解説のような形で魅せてくれていて言葉を読む楽しさの片鱗を感じられてとてもよかった!)

そこに紹介されていたリリック「愛はもらったからといって手に入るものじゃなくて、時間は歩くからといって進むんじゃなくて、人は息をしているからって生きているんじゃないんだ〈TABLO Tomorrow (feat. Taeyang)from BIGBANG〉」にガツンときてしまった。

言葉を紡ぎたい(want to)と思っていたのに、言葉の意味を深く考えず(don't do)雰囲気で言葉を選んでしまったことに気づいた。

でもそれを学べたこそが生きている醍醐味で、生きていることに意味を見出せる瞬間じゃないか!と思って再度ストーリーへ。

「生きててよかったなーって思う時は1時間前のあたしを1時間前のあたしが塗り替えられる時

時間は歩くからといって進むわけではない

過去の考えを無かったことにしないけど新しくマインドチェンジできるのは生きてるからこそ

まぁ何事も。」

つけたしで

「朝からlogic流したり生きてるからこそとかぼやいているけど死にたいわけでもなく誰かが自殺したわけでもない(と思う)シンプルに思惟する時間が有り余っているだけ」

って投稿したんですよ。

どう思います。くどいですよね。今読んで何とも言えない気持ち悪さが襲ってきました。これ私が一番嫌いなタイプの人間なんじゃね。その時は自分らしいとか思っていたけど。自分らしさって自己陶酔することなの?私は自分が人と違うっていうことをひけらかすことができればよいのか?これこそマインドチェンジをするべきではないのか?と逡巡していたところに、学生時代の友人からのコメント一つ。

「意識高い系になってしまったのか」


リア垢に自分の意見を載せるということ


意識高い「系」ってなんなんでしょうね。誰の物差しで図られていて、どうくくられているんだろうか。誰かの意識が高いは誰かの高いと一律イコールなのか?高かったら何か問題があるのか?そもそも意識の高さ低さは他者から決めつけられるものなのか?いろんなことを考えたが、なりたくもないと思っていた「誰か」に他者から見たら自分からなりにいっていたんだな、と慙愧の念にかられてしまい悄然とした午前10時。

そもそも私は惰性で友達を作っていたし、私が大事にしていた「個」は認識が違うとしても人それぞれ持っているもので。

伝えてこなかったんだから私の思考を知らないのは当たり前。

知ってほしいという自分のマインドチェンジで他者からの「私」という認識の領域を侵したのは私自身であって、違和感を感じるのは間違いじゃない。

私は今までの私の人生で人から「私」を創り上げていったのだ。

それも紛う事なき自分自身の意志だ。

リア垢に自分の意見を載せるということは、「私」を炙り出すための処置だった。


インスタのリア垢をログアウトした話


ここまで読んでくれた、どうしようもなくしようもないちっぽけな私のプライドを毛嫌いすることなく寄り添ってくれた、優しい誰か。ありがとう。

私はここで自分の好きだったインスタグラムをログアウトした。消すことはまだできないけど。もしいつか戻るのであれば、「当たり前だから、話さない。」を徹底しようと思うのですが、どうかな?アンサー待ってます。

他者が創造した自分と自分が成りたかった自分にずれがあるのを認識した。それは、でも、みんなで創り上げた私であって、きっと間違いではないんだろう。最初から、一周回って大衆みたいな思考というのは分かっていたのだが、それを直接言われたことにより「個」としての自分が崩されてしまった。リア垢に「自分」を晒すことによって。面白いな~人生。

アカウントをログアウトしたからといって、今日あった出来事はなくならない。1秒毎に、存在する過去になるだけだ。そしてその過去を消すのは「私らしく」ないのではないかと思う。

消さない。だけど、戻らない。

そう、私はここで諦める人間ではない。時間をかけてでも、好きだったアカウントをつぶしてでも、再構築してやる。

お前らの俺の認識を変えてやる!!!!!!!!

そう誓ったPM.6時でした。

ここまで全部読んでくださった方がいればそれは本当に真摯に人と向き合える人なんだな、もしくは相当に暇人なんだなと、そう心の底から感じています。






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