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ポケモンが気づかせてくれたこと。両手から片手を握る日々へ。


「ママ、何のポケモンがいちばん好き?」
「んー、ピカチュウしか知らない」


年長さんの息子がポケモンに興味を持ち出したのは、確か去年の夏頃。保育園のお友達や従兄弟の影響で、アニメを見たこともないのに、どんどんキャラクターを覚え出した。

今までは、おさるのジョージやアンパンマン、となりのトトロなどのジブリ系、トイストーリーなどのピクサー系を好んで観ていたのに、ポケモンに目が行くようになってからは、見向きもしない。

イガグリ頭の息子は、海苔を貼ったかのような極太の眉毛に、笑うと恵比寿様のように目がなくなる。

なんでもやりたいという好奇心を持ち合わせつつも、実はとっても繊細で怖がりだ。

崖の上のポニョは、「こわい…」と言って最初は見れなかったし、ドラえもんも「あおいのがヤダ!」と涙目で訴えてきたこともある。(今では大好き)
「ドラえもんのび太の新恐竜」のDVDを観ていて、クライマックスの火山の噴火シーンで、「もぅ、いい…」と言ってテレビを消したこともある。

感受性が豊かすぎるのか、もしこんなことが本当に起きたらどうしよう…と想像してしまうのか、得体の知れないものや未知なる何かに対して、興味よりも怖さが先にくるタイプなのかもしれない。

その息子が、ポケモンには何の拒否反応の示さずにのめり込むものだから、こんなにハマりこんでリバウンドを起こさないか若干心配になっていた。その反面、興味はあってもうちにはポケモン関連グッズは何もない。保育園のお友達との会話についていけなくなっていくのも心苦しいので、旦那さんと相談の結果、クリスマスにポケモン図鑑上下をプレゼントした。

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手に収まりやすいサイズもよかったのか、毎日毎日読んでいる。カバーは丸まってどこへやら…。ひらがなの読み書きがやっとだったのに、カタカナの読み方はもちろん、あかさたなの順序、キャラの調べ方などをスポンジが水を吸うかのごとく覚えていった。

だけどその変化や成長ぶりを心から喜べないわたしがいた。なんかモヤモヤする。

ソファで並んでおさるのジョージやトイストーリー楽しんでいたように、ポケモンを一緒に観ることができない。ポケモンの話を振られても「ふーん」と、ついそっけない返事になってしまう。どうしておさるのジョージやトイストーリーは良くて、ポケモンはダメなんだろう。

興味を共有できない自分に後ろめたさを感じつつも、なぜそういう気持ちになるのかその正体がわからない。そんなことが続いたある日、お友達の家にお泊まりをしにいった。

子どもたちがわちゃわちゃと遊んで寝静まった後、母親たちは夜更けのトーク。その中でわたしはこのモヤモヤ話をした。


「ちょっと違うかもしれないんだけどね…」

いつも明るくて愚痴さえも笑い話にしてしまうパワフルな友人が、今はもう中学生の娘さんの保育園時代の話をしてくれた。

「ハマった方がいい時期っていうか、ちょうどいい時期っていうのがあると思うんだ。」

今、中2の娘さんが年少さんだった頃に『プリキュア』が流行ったそうだ。もちろん娘さんもプリキュア好きに。でも友人はキャラクターものがどんどん家の中に増えるのも嫌だし、特に見せたりしなかったそうだ。だが娘さんのプリキュア熱は冷めることなく年長さんまで続き、根負けした友人はクリスマスプレゼントにプリキュアのドレスを買ってあげることにした。とっても喜ぶ娘さん。

「だけどね、おもちゃ売り場に行ったら、もううちの子のサイズの服はなかったの。いわゆる着せ替えドレスとかって、もっと小さい子向けだったみたい。」

仕方なくその中でも一番大きな服を買い、なんとか着ることができたものの、喜ぶ娘さんを尻目に痛々しい気持ちでいっぱいになった友人。年長さんにもなると、周りのお友達はプリキュアを卒業してしまい、みんなと『好き』も共有できない状態に。

「なんかもう、申し訳なくって…。だからそういうのにハマらせてあげるって言ったら変だけど、ちゃんとそういう時期があるんだと思うよ。」

ハマらせてあげる時期。
好きなのものを好きって言葉にできて、夢中になれる時間。

息子との6年間を振り返ってみると、基本的には息子の好きなようにのびのびと…と意識してきたつもりだった。でもそれは制限付きの自由というか、小さいときはある程度の枠の中での自由という風に考えていた。その枠が、もしかしたら小さかったのかもしれない。わたしというフィルターの制限が強かったのかもしれない。でもそれももう終わりで、わたしの枠はそろそろ外さないといけない時期なのかもと思い至った。

息子の手が離れていくことへの寂しさと嬉しさが、マーブル模様のように混ざり合う。

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両手をギュッと握ってよちよち歩きの練習をしたあの頃の感覚が、深く染み付いていたのかもしれない。「それくらい自分でできるでしょ」と心の中で悪態をついて、もっと一人の時間がほしいと願ったことは一度や二度じゃないくせに。

着替えを用意して、着る手伝いをして、これなら食べてくれるかなとご飯を用意して、コップのお茶をこぼしたら拭いて…膝にのせて絵本を読んで、テレビが観たいといえば、こういうのはどうかなと選んでいた日々。息子を一人の人間としてもちろん認識していたけど、やはり「お世話をしてあげる対象」という一面もあったのは間違いない。

でも4月から小学生になる息子は、一人で着替えることができるし、お茶碗にご飯をよそうこともできる。保育園の準備なんて妹の分までやってくれる。手がかからなくなっているのは嬉しい反面、離れていくその手の温もりが恋しくて寂しいのかもしれない。


ポケモンに対して偏見というか、勝手に抱いていたわだかまりは、わたしの知らないものに息子が夢中になることへの寂しさの裏返しなんだろう。

成長は変化だ。その当たり前のことに気づけていなかった。ジブリもピクサーもわたしは内容を知っていて、わたしという枠から息子に差し出した世界だ。そこには既知のものという「変わらない安心感」があった。だけどポケモンはわたしの知らない世界で、どんどん新しいキャラクターが出て進化をしていく、まさに未知の世界だった。息子という見知っている存在が、未知へ進んでいく期待と不安。変化していく寂しさにフタをして隠そうとしてたけど、それじゃダメだと気がついた。


1、乳児はしっかり肌を離すな
2、幼児は肌を離せ、手を離すな
3、少年は手を離せ、目を離すな
4、青年は目を離せ、心を離すな


子どもの成長段階に応じて、よく言われる子育て四訓という言葉。

幼児から少年への第一歩を踏み出そうとする息子。
まずは握っていた両手のうち、片方を離していこう。
そして徐々に両手を離す練習をしていこう。
自転車に乗るように、転んだり電柱に激突したりしながらお互い練習していこう。


「ねぇ、ママ、何のポケモンが好き?」
「んー、かわいいのがいいから、イーブイとアチャモがいいかなぁ。ピカチュウも好きだよ。」

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