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「140字程度、一分で朗読できる文章を目標にしましょう!」「なんでです?(感嘆句除き5文字)」
表紙『徳田秋声と #永六輔 とふしぎの国のアリスが、朗らかに談笑しながら野外で読書会をしている』六輔がいないじゃん?あ、真ん中の猫っぽい生物ってコトで。んで乗せてるのは #落合恵子 でどうだい?
忙しいと小説も読んでられません。
実用書の切れ端や、他人の行動を横目で見て確かめるためのニュース、両方に当てはまるNoteやAmebaブログのバックログ記事。そういった細切れの情報は頭の中で繋がっている事を確かめるための夜睡眠、昼寝、読書時の猛烈な眠気とその行使を挟まないと、とてもとても凡人にはやっていられません。健全ではあると思うのですが。
その点、文学はいいですよね、基本”無駄”だから、頭の中を綺麗にまとめずに、いつまでもいつまでも一作品を。ゆえ、文学の読書の気怠さ、かったるさ、しんどさは「それ」を感じた時点で興が乗ってきた証拠。コーヒーを飲むなり、仁丹を口に放り込むなりでその「つまらない」という新鮮な感情を、増幅させればいいのです。
この天才肌の鏡花も、自然主義全盛時代には戯作者か何ぞのやうに看做されたこともあり、軽い喀血を気にして、数年逗子に転地してゐた前後は、生活も楽ではなかつた。しかし其の後大いなる彼の芸術擁護者が現はれ、文壇の新人にも理解者が多く、生活が安定すると同時に、後の芸術的半生は、恵まれてゐた。私は曾て「黴」で臨終のときの紅葉先生についてちよつとその人間に触れたことが因となり、鏡花春葉の二人からボオイコツトされたものだが、その間でも三人会食し、二人の痛飲ぶりを傍観してゐたこともあつたが、大体初めから文学の傾向がちがふので、昔しの友情は永いあひだ途絶えた形であつたが、弟斜汀の死の前に、少し面倒を見ることになり、死んでから再び鏡花と打釈けることができたが、彼の衷心は何うであつたか疑しい。しかし今はそれは問題ではない。私も人々と共に一度はその作品に目を通し、理解ある批評もしてみたいと思つてゐる。彼をよく知つてゐるものは少くとも私もその主なる一人だと思ふからである。
少なくとも私にも、 #青空文庫 に持ってこられるような名文なら
「最後まで読んだが実に内容の無いものだった…テキ屋が売ってるスイカ、蟹並み。」
という事にはならないでしょう。そしてその中で「ページ捲るの、画面スクロールするのが面倒くさい、」「どうしても頭が痒いが掻いてはいけないと思ったら爪で掻いた線が肌にできるほど腕を掻いていた。」等のどうでもない思考と実体の低空飛行を続けると、やっとこさランナーズハイならぬリーディングレッツ、もしくはリーリードリー、健全を求めた体が不健全な通読、猛読(モードク)の世界に入っていくわけです。
…どうも、どうしても、周りに静かな状況が必要だとか、それが用意された上に更に文字以上の情報量で整った場面を演出してくれるテレビドラマや映画がいいという人もいます。というかそんな人ばかりです。
憐れむべし。野外の多少の騒音、騒動に、読んでいるどんな文章が当てはまるか、ハマらなければ自力でどんな文章を添えればいいか。頭中の右脳に遊ばせながら、左脳が読み進める読書こそ至高。ちったあ五月蠅い場所で現実を横切る、無視した文章がどういうコントラスト、違いによる面白味を呼ぶか?自分の読書の”領域”が作れれば静寂に浸ったまま感じることができるでしょう。
無名人の乱文、失礼をば致しました。
前略▢
草々
慎み深い文章の形式で語る手短な主文内容は、小生には存在しない空白なのであった。
以上
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