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砂漠で米は育たん。でもどんな場所でも自分を育てることは出来る(って信じてる)

転職してからは仕事は【100%全力】よりも、【20%の余力】これを大事にして日々過ごしています。語弊があるといけないけど、手を抜いてるわけじゃない。手は抜かないけど、肩の力は抜きたい。そんな感じ。これが正しい表現なのかも。余力を持つ為に、工夫して仕事してる。ショートカット最強。

今は戻りたかったアパレル業界で仕事が出来ているからたぶん幸せで、尚且つ、前職のスキルや知識をちゃんと発揮出来ているからありがたいし、一応のところある程度任せてもらえるので自由で、裁量のある仕事は進めやすい。ほぼ定時に帰れて、自分の時間も増えた。この時点でまず、自分の転職前の問題はいろいろ解決している。ありがとう。やけど、人間というものはどんどん新たな欲が出る生き物。事実上、問題は解決しているけれど、時々凄まじく物足りなさを感じる。モチベーションはすでに自分の中でマインドセット出来ているはずやけど、なんかふと訪れる「なんやろう、これ」の感情と出会ってしまい避けて通れない瞬間があったりする。このなんとなく満たされない気持ちの収める居場所をその度に探してる。これからの未来の自分を作るヒントになるような、それめっちゃいいやん!と心が震えるような刺激的な感情にどうしようもなく触れたくなる時がある。仕事ってなんなんやろう。

わたしの社会人人生は30代前半で一回区切られた。その前後で仕事のスタンスは変わったように思う。自分の年齢とともに、明らかに20代の頃と全然違う。自分の大事にしたいもの、自分の時間とか食事とかそうゆうものに変わっていくから仕事への考え方も変わっていく。若い頃はがむしゃらに仕事していたし、仕事が全て!みたいな生き方していたし、全てを仕事から得ようとしていたことは否めない。今はわたし自身、見たい景色を見るためにエネルギーを注ぎたいってなるそのエネルギーは違う場所は今は仕事だけじゃない。あとは、いろんな社会経験を経て、どう考えても砂漠で米は育たないし、真冬の空の下でマンゴー作れないみたいな感覚を学んだからだと思う。諦めではなくて、受け入れれるようになったということだ。

こうゆう時にいつも思い出すのが、わたしも「エネルギーを注ぎたい!」体中でそう思えた会社のことだ。なんか色々考えてると、ひとを動かすのはモノではなく、究極突き詰めるとやはりひとでしかないよなと思う。文字にするとまじで薄っぺらいし、クソ理想主義者的な感じに映ってしまうけど、ほんとにあの時はそうだったし、色褪せない感情がある。今は物理的にあの頃のようながむしゃらな働き方はできないけれど自分が自分でいれる場所だったし、わたしの基本ベースはあの場所にある。だからこそ、わたしはひとの存在のエネルギーがどんな力を持っていて、どんな凄まじいパワーがあるか知っている。知ってることは素晴らしいが残酷だ。むかし働いていたひとたちと連絡はあえてしていない。元気ならいいなぁ。連絡もしてないし、何も言ってないし、何もしてないけど。相手がどうとかじゃない、自分がどう思ってるかだけ。想えているのならそれでいい。


会社に限らずだけど、どこにいても自分らしくいれますように。ともだちたちが自分という存在を認めてくれるけど、まずは自分がいちばんの自分の理解者でおらないと。というかおりたいなぁ。結局なんの話やねんって感じになってしまったけど、いろいろと思う夜です。あしたも自分を信じよう。今日は満月か?なんなんこれ。おやすみなさい〜

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