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「去勢していない日本人男性」と『バッコスの信女ーホルスタインの雌』


I tried to play my music, they say my music’s too loud
I tried talking about it, I got the big runaround
And when I rolled with the punches I got knocked on the ground
By all this bullshit going down, hey

Time is truly wastin’, there’s no guarantee, yeah
Smile is in the makin’, we got to fight the powers that be
Fight it baby, yeah, woo, hey, even you and I can fight the power
Fight it, fight the power 

“Fight the Power (Part 1 & 2)”  by The Isley Brothers


 私は『バッコスの信女ーホルスタインの雌』を見て、「素晴らしい」「圧倒された」と口にすることができなかった。

 2020年9月に神奈川芸術劇場で上演された『バッコスの信女ーホルスタインの雌』は、「Q」を主宰する市原佐都子作・演出の音楽劇作品で、初演は、あいちトリエンナーレ2019パフォーミングアーツプログラムである。

 この作品は、ギリシャ悲劇『バッコスの信女』を下敷きにして、制作されている。私がギリシャ悲劇はもとより現代演劇に疎く、市原作品も初見であるにも拘らず、何かを書きたくなる刺激を与えられたことは確かである。同時に、この作品を語ろうとするといつものように饒舌にはなれず、言葉が出てこない。この感覚をどのように受けとめればよいのか。

 舞台の主人公は、饒舌に自らの性を語る主婦と、主婦の気まぐれで、人工授精によって誕生した上半身が人、下半身が牛(男性=去勢していない雄牛[bull])の子ー獣人である。雌ホルスタインの霊魂である合唱隊が見守る中、男/女(he・male/she・female)、親/子、人間/動物など、現代社会における主従、権力関係をモチーフにしながら物語が展開していく。

 演者の所作やセリフはユーモアをたたえているが、舞台で語られ歌われる出来事は、ややもすると、観客が劇場の外——現実社会で抱えている問題を呼び覚まさせるほどに生々しいディテールに溢れていた。しかし、ギリシャ悲劇の堅牢な形式を援用し、小気味良いキックを聴かせるポップな音楽が鳴り響くことで、物語の力が増して、現実社会からふたたび舞台の中へと引き戻される。

 さて、ここまでの文章では『バッコスの信女ーホルスタインの雌』を語っているとは言えない。舞台と切断された観客席に座ったままの態度で、作品を対象として観察し記述することは可能かもしれない。だけれども、私が感じたこの作品を語る難しさは、やはり戯曲のモチーフにあり、語ろうとする私が、舞台上で語られはするが存在しない、「男」であることに由来するのは間違いない。作品を見た後に語ろうとすると、男が「女」を語るような臭いがして、発した言葉は戯言、言い訳になって自分の内にこだましてくる。

 私は「去勢されていない日本人男性」です——私自身のまぎれもない自己紹介ではあるが、何とも言えないグロテスクな響きがある。獣人は、主婦がネットショッピングでデンマークから取り寄せた日本人男性の精子を利用して生まれていたわけだが、マスターベーションによってペニスから射出された精子を提供した「去勢されていない日本人男性」の画像が、軽妙な音楽、歌とともにテンポ良く次々にスクリーンへ映し出されるくだりで気分が悪くなった。男の欲望の対象としてのみ消費される女性の図像を見せつけられる女性のむかつきとは、これなのかもしれないと想像する。射精の方向が間違っているなんて夢にも思っていないような「去勢されていない日本人男性」の笑顔の薄気味悪さ。ニンゲンになるための通過儀礼か、はたまた悪夢か。

 お前の言葉、批評は男のものだと突きつけられている。お前の批評精神には、自分が元々持っていた鋳型から「対象」を抜き出したいという欲望が内包されていたのではないか。男が持つ正義の味方(見方)で相手を型に嵌めてはいないか。そうではなくて、作品から照らし出されたモノを見て、欲望の方向を軌道修正できないか。

 獣人が、舞台背景の上部にあったスクリーンを破り、自分のペニスを切り取った母の愛を問うシーンがある。舞台に穴をあけ、舞台の内と外を接合し、虚構の物語と現実をつなげる演出は、過去の現代作品でも見られた。作品の外から何モノかがやってきて、物語が絶頂に達し、舞台内に充溢していた物語の圧力が外部へ一気に流失、大団円を迎える——しかし、これまで見てきたものが大いに男性的な規範に基づく感覚であったことに気がついた。『バッコスの信女ーホルスタインの雌』では、内と外をめぐる問題のとらえ方が間違いだったのではないかと思わせる。この作品において、唐突な外部からの破壊は、内部で丹念に練り上げられた物語を決して流失させない。獣人が、スクリーンから舞台の中空へ投げ出したのは、ペニスを失った獣の下半身ではなく、ニンゲンの上半身だけであった。この演出はむしろ物語の内圧を増幅させ、作品は極めて薄い表皮越しに、外界のかたちを更新する。

 一緒に観劇した連れ合いがみなとみらいを歩きながら、「『バッコス』の制作現場は楽しかっただろうな」とつぶやいたので、私はびくりとした。今、キタイロンに惹かれる女たちは少なくないだろうなと思った。


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