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イザベラ・バードが訪れたルナリロ王のハワイ①ホノルルとハワイ島

ハワイ王国史におけるルナリロ王の在位期間は、わずか1年25日。だが、この期間にハワイの島々を訪れ、王に謁見した英国の女性旅行作家がいた。私は2018年に彼女が書いた本の日本語訳を購入したが、本棚に積んだままになっていた。今回、xでルナリロ王時代のハワイを紹介するために、彼女がハワイから英国の妹に送った手紙を抜粋する形で連載を始めた。手紙16で彼女は一旦ハワイ島を離れるので、ここまでを一区切りとし、要約を補うためにインターネット上で公開されている写真を添えた。


ルナリロ王(1873~1874)

ウィリアム・チャールズ・ルナリロは1835年1月31日、現在のホ​​ノルルで、カメハメハ大王の姪ミリアム・アウヘア・ケカウルオヒと王族チャールズ・カナイナの息子に生まれた。カメハメハ3世に王位継承資格があると宣言され、王族の学校で教育を受けた。文学と音楽が得意。

若きルナリロ(1860年代)
若きルナリロ(1860年代)

カメハメハ5世は1872年12月11日に亡くなるまで、王位継承者を指名しなかった。人民に有利で王の権力を弱める憲法を望むルナリロは「相続法によれば私が王位の継承者だが、決定を国民に委ねたい」と述べる。1月1日の国民投票で過半数の票を獲得。1月8日の議会の投票で全37票を獲得して国王に就任。

ルナリロ王(1870年代)
ルナリロ王(1870年代)

米国との互恵条約を結ぶことで、砂糖にかかる関税の撤廃を目指すが、実現せず。健康を害し、わずか1年25日の短期間在位の後、1874年2月3日に39歳の若さで肺結核で亡くなった。国民の中に居ることを望んだルナリロの遺骸は1875年、王家の霊廟からカワイアハオ教会の敷地内に建てられた墓へ移された。

カワイアハオ教会の敷地にあるルナリロ王の墓
カワイアハオ教会の敷地にあるルナリロ王の墓

イザベラ・バードのハワイ紀行(1874)

イザベラ・バードは1831年、イギリスのヨークシャーで牧師の長女に生まれる。幼少期から病弱で、23歳の時に医師の勧めで北米に転地療養し、1856年に最初の著作『アメリカの英国人女性』を出版。1858年に父が死去すると、母親と妹と共にエジンバラに転居する。

1872年にオーストラリアとニュージーランドを訪れた後、翌年、北米へ向かう途中に寄港したサンドイッチ諸島(ハワイ)に魅せられて6か月滞在。41歳の時だった。滞在中に妹に送った31通の手紙に付論を添えて、2冊目の本『サンドイッチ諸島での6か月』を1874年に出版。日本語訳は、近藤純夫の訳で2005年に平凡社から刊行。

ハワイでは、オアフ島ホノルル、ハワイ島ヒロ、カウアイ島コロア、マウイ島ウルパラクアに滞在。ハワイ島ではキラウエア、マウナ・ロア、フアラライ、マウイ島ではハレアカラに登頂。また、ヒロではルナリロ国王、ホノルルではエマ女王に謁見し、サトウキビ農園などで働く中国人や日本人にも接した。

イザベラ・バードのハワイ紀行(平凡社ライブラリー版 2018年発行)
イザベラ・バードのハワイ紀行(平凡社ライブラリー版 2018年発行)

オアフ島

1873年1月25日は朝の6時半に「島だ!」と叫ぶ声で飛び起きた。はるか彼方にオアフ島が見える。灰色の山頂が一面の海に突き出ていた。
島が近づくと、そびえ立つ山並みの頂きは灰色と赤い色に染まり、ぎらぎらと輝いていた。山々を切り裂く渓谷には緑の縞模様が広がり、幾条もの滝が流れ落ちている。

ニュージーランドやオーストラリアの埃にまみれた赤褐色の光景を見てきた目には、嬉しい眺めだ。
さらに島が近づくと、海辺には羽根のように葉を広げたココヤシが立ち並び、打ち寄せる波が長い海岸線を描き出す。ダイヤモンドヘッドは猛々しい姿を緑の靄で覆い、ヤシの木の林は山麓に吸い込まれる。

ネヴァダ号がホノルルのサンゴ礁の外側に到達すると、重厚な波の音が耳に届いた。そのとき、水先案内人の船から新聞が届いた。ビル王子(ルナリロ)の即位が満場一致で議決されたというマーク・トウェインの記事だった。
埠頭に碇を下ろすと、何百人かが船に乗ろうと押し寄せてきた。

ワイキキから見たダイヤモンドヘッド
ワイキキから見たダイヤモンドヘッド

乗馬

男も女も肌の色は小麦色で、花の髪飾りや首飾りを身に付けている。中国人は肌の色が黄色く、頭の後ろに結った髪を垂らしている。ほかにも、白人、混血、少数の黒人、南洋からきた濃い褐色の数名のポリネシア人など、多彩な人々で賑わっている。男女とも、気楽で満ち足りた嬉しそうな表情をしている。

美しい光景と美しい人たちの輪から外れたところに、メキシコ式の鞍を着けた馬が200頭ほどいた。どの馬も憔悴しきっているように見えた。この馬の持ち主は、乗馬を愛する先住民だ。色鮮やかなロングドレスを身にまとい、花飾りを付けたハワイ女性が馬にまたがり、颯爽と道路を疾駆するのを見かける。

土曜の午後、街は祭り一色に染まる。何百人もの男女が馬に乗っている。哀れな痩せ馬がメキシコ式の拍車をかけられると、全速力で疾走するのだ。ハワイ女性に乗馬はお手のもの。鞍に裸足でまたがり、軽やかに疾駆する。輝く瞳、白い歯並び、艶やかな髪、色鮮やかな着衣は、万華鏡を覗いているようだ。

ハワイ女性の休日用乗馬服「パウ」
ハワイ女性の休日用乗馬服「パウ」

ハワイ島へ

ホノルルでどのように1週間を過ごそうかと思い巡らしていると、デーモン夫妻が口説き始めた。友人の女性がハワイ島の火山に行く連れを探しているので、一緒に行ってはどうかというのだ。私は2時間後に埠頭に立っていた。楽しそうなら、先が見えなくても飛び込んでしまう自分の性格に頭が痛かった。

黄昏時に出航したキラウエア号は翌日、マウイ島のラハイナ、マアレイア、ウルパラクアに停泊した。白熱の太陽は、青海原に照りつけ、漆黒の熔岩と赤い大地を焦がした。その後、海峡を渡り、ハワイ島の北西に位置するカヴァイハエに寄港し、東の風上側に向けて進む。甲板の上に寝具を敷くが、眠れない。

雨と虹の間に太陽が昇った時、森の色合いが一変した。海岸線は高さ100mの崖で、洞窟が口を開ける。幾筋もの滝が流れ下る。その先には緑の草原があり、草葺きの家、カロ水田、バナナやククイの木がある。鬱蒼とした森がマウナ・ケアとマウナ・ロアを取り囲む。ハワイ島風上の緑は自然の恵みの極致だ。

ヒロから望むマウナ・ケア
ヒロから望むマウナ・ケア

キラウエア火山

ヒロは、すべてが目新しく面白かったが、鞍が不安定で乗馬は散々だった。ハワイ島郡知事サヴァランス氏はハワイ流に馬の背にまたがったほうが楽だと言って、彼の鞍を私の馬の背に載せてくれた。試してみると、これでキラウエアを目指そう、という気分になった。現地の女性は、誰もがまたがって馬に乗る。

朝8時にヒロを出て火山へ。ひどい馬旅だった。闇が訪れた。真っ赤な水溜まりが路上で光り、空が赤く輝くと、道が明るく照らし出された。午後8時にクレーター・ハウスに辿り着く。翌日、火口へ。新しい熔岩の上を3時間歩く。突然、目の前に血糊のような塊が空高く噴き上げられた。感動の涙を流す。

11の噴泉が溶岩湖の中で陽気に噴火を繰り返していた。ときおり6つの溶岩湖が合体して巨大な渦をつくりだし、盛り上がって高さ10メートル近くの巨大な円錐丘となるが、次の瞬間には新しい流れとなり、いくつもの噴出口をつくって勢いよく溶岩を撥ね飛ばすのだった。噴泉の印象は深く私の心に刻まれた。

夜のキラウエア火口
夜のキラウエア火口

ヒロでの生活

島の北部からホノルル行きの船に乗る予定だったが、渓谷が氾濫して移動を断念。次の船までS夫妻邸に3週間、下宿させてもらうことに。当地の白人社会は狭く、船旅のような鬱陶しさがある。人々は互いの日常生活を隅々まで知っているからだ。家計の収入支出から、その日、誰がどうしたかにいたるまで。

ヒロは先住民の人口が多い。格子窓の木造家屋やベランダを持つ草葺きの家がマンゴーやバナナの木々の間から顔を覗かせている。カロは国民食で、水田に植えた日から、できたカロを叩き潰して心をこめて賞味する時まで、人々は常にカロに気を配る。カロ水田4㎡でハワイ人1人が1年食べていけるという。

ココヤシ、パンノキ、ヤム、グァバ、バナナ、パパイアは、人の手を借りることなく、勝手に育って熟してくれる。だから男も女も、趣味に打ち興じる。男は波乗り、女はレイ作り、男女共通の趣味としては、世間話、歌、乗馬がある。人々は家の前に集い、ゴザに坐って、歌い、笑い、話し込んで一日過ごす。

ワイキキのロイヤルグローブに再現されたカロ(タロイモ)水田
ワイキキのロイヤルグローブに再現されたカロ(タロイモ)水田

オノメアの農園

サヴァランス夫人の姉の家に数日滞在してほしいと言われ、馬でオノメアへ。山の急斜面を登り、深い渓谷へ急降下して急流を渡ることを繰り返し、邸宅が建つ標高180mの高台に辿り着いた。眼下に太平洋がさざ波立ち、青い空が広がる。近くには農場の監督者の家などがあり、崖下には大きな集落がある。

深い森は海岸から2.4kmの地点に始まるが、所々に草地やサトウキビ畑がある。農場は繁忙期で活気づいている。山から流れる川の水を用水路に引きこみ、サトウキビと燃料用の材木を製糖所の水車に運ぶ。農場主は100頭のラバを使って樽詰めの砂糖を入江に運び、ホノルル行きのスクーナー帆船に積み込む。

農園は先住民と中国人185人を雇い、年間600tの砂糖を生産する。中国人は5年契約で雇われる。物静かで仕事熱心だが、阿片を吸い、賭け事に熱中する。貯蓄に励み、任期が明けると、店を構えたり、商い用の野菜を栽培したり。先住民は仕事をさぼりたがる。経営者は畑と工場で作業が予定通りか確認する。

海側から見たオノメア
海側から見たオノメア

農園主の暮らし

この家は、住まいも家族も気持ちが良い。A夫人は病弱だが朗らかで、夫人の部屋が家族の集いの場になる。4人の息子たちは、1日中、裸足のまま野外で過ごす。父親は30頭の馬を所有し、子供たちは馬が大好きだ。料理と給仕をする中国人の料理人がいて、彼の妻は家の掃除、A夫人の世話、縫い物をする。

中国人は機械人形のように働き、日暮れとともに姿を消す。玄関に呼び鈴はなく、召使による取り次ぎもない。室内に埃は立たず、窓は開いている。人々の生活は質素だが味わいがある。これほど楽しそうに生活している人たちを見たことがない。彼らは見知らぬ旅人にも質素な客室を提供し簡素な食事に誘う。

気温の変化はほとんどなく、日が暮れてからも冷えることはない。空気は人を癒す香草のようだ。無尽蔵の空気と日射しに恵まれ、私は日1日と健康を回復し、病弱とは無縁になりつつある。仕事を行い、本を読み聞かせ、おしゃべりをし、乗馬に出かけ、その辺を散策していると、手紙を書く時間はなくなる。

山側から見たオノメア
山側から見たオノメア

ワイピオ渓谷への旅

ハワイ島オノメアからワイピオ渓谷へ5日がかりの旅。これまでの42kmは、深さ30~240mのガルチ(渓谷)に入っては抜け出すことの繰り返しだった。微風がそよめく明るい高台を馬で進んでいると、断崖に道を阻まれる。足元の森からは水音が聞こえてきて、渡らなければならない川があることを知らされる。

雨は激しく降り続き、道程は遅々として進まない。ボラボラの家に向かう長い斜面を登りながら、私は燃え盛る火のそばで服を乾かすことだけを思った。着替えをして、茹でた鶏肉とサツマイモとポイを食べ、上掛けにくるまって寝た。人里離れた家で先住民に囲まれて、心は我が家にいるように安らかだった。

朝食を済ませ、滝へ。美しい谷間を抜け、深い渓谷に出ると、その先は600mの絶壁に囲まれた谷間に通じていた。馬を繋ぎ、乗馬服のまま川を渡り、岩を登り降りし、ジャングルを突き進み、滝壺から川が流れ出す場所に辿り着く。生温かく静かな川に首まで浸かり、滝を記憶に刻んだ。一瞬、虹が架かった。

ハワイ島ヒイラヴェの滝
ヒイラヴェの滝

ヤシの実

オノメアへの帰り道、54㎞近くを馬に乗り続け、夕方、ラウバホエホエ村の未亡人の家へ。同居する兄弟と従兄弟が鶏を絞めて夕食を準備し、彼女はベッドを用意してくれた。蚊張を張った4柱式のベッドは、清潔なシダの繊維で作ったマットレスにシーツをかけ、その上に美しいキルトのカバーをかけていた。

飲み物がないので、ヤシの実を採ってきてほしいと男の子に10セント硬貨を渡した。ほどなく、大きな無骨な物体が8個、戸口に転がってきた。淡褐色の殻の下に厚さ2.5㎝の繊維質の層があり、これを剥がすとヤシの実が現れる。私が割った若い実に入っていたコップ3杯の液体は甘く、ほのかに酸味がある。

翌朝起きると強風が吹き荒れている。豪雨が数時間続くらしい。同行のデボラは、すぐに発って馬で37㎞走れば、川が増水する前にオノメアに着けるという。最も危険なガルチで、馬はもがいて前脚を岩にかけ飛び乗ろうとするが、滑って穴に嵌まり、私は水の中に沈む。男2人が縄を引き、馬は岸へ辿り着く。

若いヤシの実を割って水を飲む
若いヤシの実を割って水を飲む

ヒロでの伝道

ヒロの人々は親切で社交上手なので、滞在は楽しい。特に私が楽しんだのはタイタス・コーン師の家で過ごす午後。師は、伝道を開始した頃の話を静かな口調で語る。1835年にヒロに到着すると、年末までに徒歩とカヌーでハワイ島480㎞の行程を一周。1837年の大洗礼会を期に一大宗教旋風が巻き起こる。

人々は、イエスによって与えられる永遠の生命を、朝の光のような嬉しい知らせと考えた。「私の魂は死なず、瘦せ衰えた身体はもう一度生き返るのか?」という驚きが先住民の感じ方だった。誰もが福音を聞きたがり、遠くの集落から伝道本部の近くに集まり、ヒロの人口は1千人から1万人へ膨れ上がった。

1937年11月7日、コーン師は6千人の聴衆に向けて4回の説教を説いた。この日の聖句は「汝ら、備えよ」だった。人々は1日の務めを終え、静かな宵に讃美歌を歌っていた。その時、大きな山が海岸に落ちるような音がして、津波がすべてを押し流したが、水陸自在の先住民は、それほど多くは死ななかった。

ハワイの先住民への説教
ハワイの先住民への説教

ホオクプ(供物)

2月、ルナリロ王は米国軍装甲艦ベニシア号でヒロを訪れた。午前10時、王が海岸に降り立つと、浜辺を埋める群衆は歓声を上げ、宿舎の知事邸まで王に付き従う。家に入っても群衆は解散しないので、王は再び姿を現し、「余は臣民に会えて嬉しい。月曜日に接見パーティを開く予定だ」と演説を行った。

月曜日、人々は早朝から押し寄せ、海岸には千頭の馬が繋がれた。王は10時に庁舎に入り、狩猟用スーツのような服でベランダに立つ。先住民が平服で気軽に出席できるようにとの配慮だ。王が姿を現すと、熱狂に包まれた。少年たちがハワイ国歌の合唱を終えると、2400人のハワイ人が1人ずつ王の前に進み出た。

女性はホロクーというロングドレスを身に着け、レイで身を飾っている。多くの女性が鶏の両脚を縛って置き、跪いて王の手を両手で握る。カロ、サツマイモ、バナナ、卵、ヤシの実などが山をなす。200人の中国人の農園労働者は全員で献金を渡す。ホオクプ(供物)には、王への熱烈な愛情が込められていた。

ホオクプが催されたハワイ郡庁舎の前の通り
ホオクプが催されたハワイ郡庁舎の前の通り

王との時間

ライマン師の家で、王に紹介された。王はエマ女王が英国で歓待されたことを語り、英国を訪れて立憲政治についての知識を深めたいと述べた。ハワイの王権の制約について様々な疑問を呈した。即位以来、先日のホオクプほど嬉しかったことはないと言い、私の感想を促した。私は儀式を堪能したと答えた。

翌日のサヴァランス邸でのパーティで、私は中国人の料理人を助手に作ったトライフルを出した。王に親睦の夕べを楽しんでもらおうと、椅子取りゲームなどを用意した。王は最初は見ているだけだったが、やがて次々とゲームに参加した。王に署名をお願いすると、署名に添えるスタンザを翌日に持参された。

いずこに貴女がさすらおうと
いずこが貴女のすみかになろうと
願わくば、主の導きによって歩まれんことを
主に見守られ、与えられんことを
海の彼方からの訪問者である貴方を歓迎する
わが心からの祈り
ルナリロ・R

2月26日、私は3週間を過ごしたヒロを離れて、蒸気船キラウエア号に乗船した。

ハワイ王国ルナリロ王の署名
ルナリロ王の署名

ワイメア高原

陽光に輝くヒロの海岸線とは対照的に、ハワイ島南部の風下側に広がる海岸線は、埃と火山灰が続く。剥き出しの溶岩が累々と積み重なり、唯一ココヤシだけが海岸沿いに並んでいる。川も緑もなく、ただ熱帯の苛酷な陽射しに晒された。船は溶岩の海岸沿いに進み、正午過ぎ、カヴァイハエ湾に投錨した。

到着直前にホノルル行きの蒸気船が1週間遅れることを知り、ワイメア経由でワイマヌ渓谷へ出かけることにした。ヤシの木が並ぶ海岸線からワイメアの北の山々に至る16㎞の道程には1本の木も川もない。海岸から16㎞を過ぎると、赤い大地は緑色に染まりはじめ、頂きには美しいワイメア高原が広がる。

私が泊る家の主はタスマニア出身。先住民と中国人を数多く雇い、標高1800mのマウナ・ケアの牧場で2万5千頭の羊を飼って羊毛を輸出し、千頭の牛と50頭の馬も所有。標高750mのワイメア高原の気候は、平均気温17℃と爽快だ。初期伝道団のひとりライアンズ師は40年間務めたこの地を離れられずにいる。

ハワイ島ワイメア高原
ワイメア高原

ワイマヌ渓谷

ワイメアの朝は赤と黄金色の光に溢れ、雪を戴くマウナ・ケアには雲一つない。灯火を点して朝食をとり、6時前に出発。空気は澄みわたり、馬も小躍りする。枯れ木が連なるハマクアの森を経て、ワイピオの断崖を歩いて下る。渓谷の奥は青く沈み、靄が渦を巻いて立ち昇る。ハレマヌ氏は快く迎えてくれた。

10時前にワイピオを発ち、先住民のハナヌイをガイドに渓谷を駆け抜けて反対側の絶壁に到着した。崖は垂直だ。道幅は75~115㎝でジグザグ模様を描いている。崖の頂きを経て9つのガルチを渡ると、眼下にワイマヌ渓谷が広がる。急峻な坂を下ると20軒ほどの草葺き小屋の前に先住民の大半が集まっている。

草葺き小屋の前に輪になって坐り、石竈で焼いてくれた鶏とポイの食事をとる。コーン師の写真を見せると拍手喝采し、王の署名には感嘆の声を発した。先住民への挨拶を終えて川を遡る。涼しげな木陰では川の調べが甘美に響く。倒木からは妖精を思わせる苔やシダが伸び、露を含んで陽射しにきらきら輝く。

ワイマヌ渓谷の山側

大地の割れ目

川の中を1時間歩くと、5つの滝が半円形の崖から落ちていく滝壺に出た。滝は、遥かな高みから無数の虹の中を静かに流れ落ちている。川下に戻ると、馬に乗った30人が待ち受けていた。皆が私に握手を求め、レイをいくつもかけてくれた。川に入ると、大勢の子供たちと犬と3艘のカヌーが私に付き添った。

谷間に闇が広がると、チャントの澄んだ声が響きわたった。煙草のパイプがめぐり、ポイが新たに用意され、ココナッツミルクが瓢箪に満たされ、メレが長々と続いた。私は横になるが、ゴキブリと蚊と暑さに眠気阻まれて深夜に起き出し、海が咆え、川がせせらぎ、木の葉がそよぐ芳しい夜にしばらく浸った。

夜明け前には私の馬に鞍が置かれ、大勢の先住民が集まっていた。私は裸足で馬に跨り、再び川を遡った。ごつごつとした岩場を乗り越えて小さな丘に上った。そこから大地の割れ目である渓谷が一望できた。高さ900mの絶壁は露をまとって陰の中にあったが、一条の陽射しが差しこむと薔薇色に染まった。

ハワイ島ワイマヌ渓谷の海側
ワイマヌ渓谷の海側

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