片岡義男『シュガー・トレイン』②機関車を見下ろす記憶喪失の女性の物語
モノクロームのフィルムはセピア色に変色していた。双発のDC―3が脚を出し、機首を下げた。誰もが懐かしさを禁じ得なかった。18年前のハワイ島ヒロ空港だ。着陸したDC―3の主翼のうしろのドアが外に開き、小さな女のこが、ドア口に立った。そして片手を振った。
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5歳のジェニファーだ。すぐうしろに彼女の母親がいた。数人の出迎えを受けた。抱き合い、頬に接吻を交わし、レイをかけあった。彼女の顎が花のなかに埋まった。ふと、彼女はカメラを見た。そして、恥ずかしがった表情とともに、かわいらしく微笑した。スクリーンを見ているみんなが喜んで手を叩いた。
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カットが変わった。まっ青な空とダーク・ブルーの海、白い波、波打ちぎわの黄金色に輝く砂浜が、スクリーンいっぱいに映し出された。
波打ちぎわから歩いて来る若い女性が、スクリーンの中央に。陽焼けした、姿の美しい女性だ。黒い髪が風になびいた。カメラに接近すると、ジェニファーだとわかった。
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土手の上の松の樹陰にジェニファーは立った。カメラに顔を向けて微笑し、喋り始めた。
「私はハワイ島にいます。18年前の私にはオアフの田舎と変わりなかったのですが、いまの私には、いろんな意味を持っています。ハワイ島での出来事から、みなさんにお伝えしたいことを、これから見ていただきます」
拍手がおこった。カットが変わった。スクリーンいっぱいに青空。上部から飛行艇が入りこんで来た。オロマナ・ビーチパークで6か月前、僕とジェニファーが撮影したシークエンスだ。ラリーとクレイトンの波乗りが第57番サーフとともに再現された。誰もが歓声をあげた。
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波乗りを終えたふたりのサーファーはカメラに向かって歩いて来る。画面がぼやけて『第57番サーフ最後の日々』と、タイトルが出た。全員が盛大な拍手をした。
ジェニファーは、記録映画が90%完成したところで、仲間たちを集めた完成寸前の試写を、音入れをしているスタジオの映写室でおこなっている。
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第57番サーフが消えるまでの事実経過を、発電所の冷却排水管のことから始まって、抵抗運動、電力会社による詐欺的な妥協案とその発覚、コンクリートの人工海底、抵抗運動の分裂、そして昔の蒸気機関車の復活にいたるまでが、面白く画面に展開した。
ジェーンが書いた記事がクロース・アップになった。
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砂糖会社の機関車庫に眠っていた蒸気機関車のレストアがほぼ完成したところで映画は終わっていた。
「蒸気機関車の公開試運転は一週間後だ。どんなふうに撮るつもりだい」
「早朝の機関車庫に向かって線路上をドリー・インしていくの。ドアが開いてミカドが蒸気を吐くのよ。そして走ってる様子を撮る」
午前中の時間を、彼女はいつも窓辺ですごす。この40年間、毎日、そうしてきた。今日も彼女は窓辺にいた。
72歳の、やせた老体を籐椅子に落ち着け、鉢植えの観葉植物がいくつか乗っている窓枠に片腕をもたせかけ、彼女はいつものように病院の4階の窓の外を見ていた。
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窓から見える光景は、毎日おなじだ。
まっ青な空の下にダーク・ブルーの海と水平線が遠くに見える。白く輝く雲が浮かんでいる。オロマナ・ビーチパークの丘。その下の海岸。ハイウエイ。ハイウエイの内側の土手には線路が敷きなおされている。線路の内側に帯状にのびる林。砂糖キビ畑の濃い緑の起伏。
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いっさいが強い陽ざしのなかに輝き続ける。午前中を窓辺ですごす彼女は、変化のほとんどないこの景色を飽かず眺めることで、彼女を支配する不安定な気持を自己治療する。
お昼が近づく頃、彼女の気持は落ち着いてくる。背もたれに背を預け、腕や脚から力を抜き、微笑すら浮かべて窓の外を見続ける。
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この6か月間にふたつだけ、景色に小さな変化があった。オロマナ海岸の沖に出来たコンクリートの四角い桶とハイウエイの内側の土手に敷かれた鉄道線路だ。このふたつの変化が起き始めた頃、彼女は不安を覚えた。だがその不安も消え去った。コンクリート桶もレールも窓から見える光景に溶けこんでいる。
線路は、土手の上を銀色に輝いてのびている。美しい軌跡だ。何度も、彼女は視線でそのレールをたどる。風に揺れ続ける砂糖キビの葉の海とは対照的に、線路は2本寄り添ったまま、動かない。おだやかな2本のカーヴは、心をなごませる。いまも彼女はレールを見ていた。
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林の突端までレールを目で追った彼女は、視線を遠い水平線に戻そうとした。その瞬間、蒸気機関車が林から出て来た。
「OH!」
と彼女は叫んだ。両手の指先でこめかみを押さえて、
「OH!」
とふたたび叫んだ。
灰色の煙を噴きあげ、三輛の客車を引っぱり、蒸気機関車は土手の線路を軽快に走った。
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彼女は椅子から立ちあがった。
彼女は悲鳴をあげた。
見えなくなるまで、彼女は汽車を見つめていた。
汽車が視界から消えると、もう一度、彼女は絶叫し、自分の部屋に向きなおった。
「メリー!」
壁に寄せた小さなテーブルまでよろけながら歩き、看護婦たちの部屋につながるブザーのボタンを押した。
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彼女は部屋を見渡した。住みなれた部屋なのだが、彼女の表情には驚愕ととまどいが宿っていた。
「私はなぜここにいるの?」
看護婦メリーは、彼女を抱きとめた。
「私はマーシア・レイノルズよ。この町に住んでる小学校の先生だわ。いまの汽車で学校へいくのよ。だのに、なぜ、私はここにいるの?」
ジェーンは早業をやった。
よみがえった鉄道が公開試運転をおこなった日、病院の窓から蒸気機関車を見た記憶喪失の老女が突然、記憶をとり戻した。そのニュースを友人を介してインディアナ州で受け取ったジェーンは、ハワイ島ヒロ行きのノースウエスト機に飛び乗った。
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今回は僕に頼ることなく取材して記事を書きあげ、西海岸へ帰っていった。
47年前、彼女が24歳だったある日、自動車事故にあった。彼女は一週間、意識不明だった。意識が戻ったときには重傷の記憶喪失となっていた。初めは言葉も駄目だった。各地の病院を転々とし、10年後にこの島の病院に帰って来た。
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言葉に関する記憶は戻ったが、自分自身に関する記憶は回復しなかった。自分が誰であるのかをつかみきれない年月が重なっていき、不安感や鬱病に似た症状にとりつかれ、病んだ心は体を弱らせていった。
40年目に入る頃、不安感のおそって来る周期が長くなり、不安感をコントロール出来るようになった。
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彼女は病室の窓から、昔とおなじたたずまいで走る蒸気機関車を見たとたん、47年間失われていた記憶の大半が大量の輸血を受けたように体内に戻って来た。
復元されていく鉄道と、新品の線路を見下ろす病院にいる記憶喪失の女性との、スリリングな接近の物語を、ジェーンはサスペンス豊かに描いていた。
寺の広場では盆踊りがおこなわれていた。中央のやぐらから周囲の樹や建物にロープが張り渡され、提燈が下がっていた。日本の歌のレコードが鳴り、きれいな浴衣を着た女性たちがデモンストレーションの踊りを見せていた。人々がやぐらを囲み楽しそうに踊りを見ていた。
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今夜の寺は忙しい。日本から派遣された僧侶は、檀家めぐりだ。奥さんは、近所の日系の老婦人たちを指揮して、冷たい飲み物や寿司、サンドイッチ、照り焼などを用意している。
寺の広間には、深く陽焼けした日系の初老の男たちが集まっていた。鉄道をよみがえらせたマニュエルやボブたちの顔も見えた。
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初老の男たちは全員、マーシアの教え子たちだ。記憶をとり戻した彼女のために合同でクラス会を開く計画について語り合うのだ。看護婦のアシスタントが、マーシアの状態を説明した。
記憶が戻ったのはよかったが、47年の時間経過が抜け落ちた。ある朝、目覚めたら、47年も年月がたっていた状態なのだ。
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47年にわたって記憶を失っているあいだに、自分に関心を持ってくれる人を失った、とマーシアは強く思いこんでいる。不安感に代わって孤独感が、いまの彼女を強く支配している。
マーシアのためにクラス会を開くのは、彼女にとって非常にいいことだろうという結論が、盆踊りの寺の集会で導き出された。
当日の朝、ジェーンから電話があった。
「今日、マーシアのクラス会のパーティがあるんですって?」
彼女はパーティの会場と時間を訊いた。
「とてもドラマチックなことがあるわよ。西海岸でついに探し当てたの。パーティには私も出席するわ。会場で会いましょう」
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パーティは盛会だった。海に向かって広く張り出したバルコニーのある、大きな続き部屋だ。海から心地良い風が吹いた。
マーシアは元気そうだった。昔の教え子たちが語る思い出話を熱心に聞いた。ときたま頬に涙を流した。パーティが盛りあがったところへ、ジェーンが白髪の白人男性をつれて登場した。
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背の高い、やせた男だ。趣味のいい服に身を包み、体の手入れ、陽焼け、陽気な気質で年齢は覆いかくされているが、歩き方から見て70歳を越えている。
「マーシア、こちら、メルヴィン・ペインさん。昔のあなたの恋人」
マーシアはショックを受けたようだった。彼女はメルヴィンのことを思い出していた。
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抱き合って再会を喜びあい、マーシアは少しだけ泣いた。メルヴィンは、彼女のそばを離れなかった。
ミュージシャンからウクレレを借りたメルヴィンは、椅子にすわったマーシアの前に片膝をつき、『恋人よ、君に、アロハ』を歌った。
その夜、マーシアは心臓発作にみまわれた。憂鬱感に深く落ちていた。
「To You, Sweetheart, Aloha」(1936年)
作詞作曲:Harry Owens
恋人よ、君に、アロハ
アロハ、心より
唇に微笑みを
涙を拭いて
もう一度、アロハ、さようなら
恋人よ、君に、アロハ
今夜、夢ではあなたと一緒
そして私は祈る
二人が再会する日を
それまでは恋人よ、アロハ
ジェニファーの映画『第57番サーフ最後の日々』の完成特別試写会のあと、僕とラリーは、アラモアナのオフィスに帰って来た。映画は素晴らしい出来ばえだった。第57番サーフの消滅をめぐって起きた出来事のすべてをスクリーン上で体験しなおし確認することが出来た。
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オフィスには南アフリカから小包みが届いていた。差出人はチャールズ・ファーデンス。第57番サーフのかわりに、コンクリートの人工海底でサーフを作り出すことを電力会社に売りこんだ男だ。
「旅に出るとは聞いていたけれど。この中身は50フィートほどの8ミリ映画だよ」
ラリーの言うとおりだった。
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小包みのなかから、8ミリのカラー・フィルムが出て来た。地図を描いた紙が添えてあり、「ラリー。この波なら、きみにも気に入ってもらえるだろう。きみの新しい恋人になれそうなら、アロハを言いに来てほしい」と走り書きしてあった。
「映写機にかけてみてくれ」
ラリーはフィルムを僕にほうった。
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「このところ俺たちは、映画ばかり見てるな」
「波乗りに映画はつきものだから」
「映画ってのは、光と影だ。本物を見にいこう」
ラリーは言った。
「チャールズが送ってくれた波のフィルムが素晴らしかったら、ただちに南アフリカへいこう」
「そうしよう」
照明を消し、僕はプロジェクターへ歩いた。
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片岡義男『シュガー・トレイン』(1978年)
『シュガー・トレイン』は雑誌『野性時代』1978年10月号に『恋人よ、君に、アロハ』という題で発表された。47年間、記憶喪失状態だった元小学校の先生が、昔と同じたたずまいで走る復元された蒸気機関車を見て、記憶を取り戻す物語だ。記憶を取り戻した女性に向けて、昔の恋人が歌う曲の名前が、この物語の最初の題だった。ミカド型蒸気機関車は、砂糖会社が砂糖キビの刈り入れ作業用につくったものだが、この物語の舞台であるハワイ島でも、砂糖産業は新興国の低価格攻勢に耐えられなくなり、砂糖キビ農園が次々に閉鎖され、2016年に最後の砂糖精製工場が停止された。
なお、私の文章は、片岡作品の要約で、表現を補うために写真を添えた。
『波乗りの島』として1冊にまとめられた片岡義男さんの5つの短編小説の全文は、下記のウェブサイトで公開されている。
青空文庫
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