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片岡義男『ベイル・アウト』①トゥアモツの環礁で消息を絶ったサーファー

電話が鳴った。オフィスの手前の部屋と奥の部屋と、どちらでも取れる電話だ。電話のあるデスクまであと一歩のところで、ベルは止まった。
しばらくして、ラリーが僕を呼んだ。
「電話に出てくれ。グッド・ニュースだ。マウイから」
電話のあるデスクまで、僕は引き返した。

電話はレイモンド・カアイラウからだった。真の意味でトップ・クラスに数えることの出来るサーファーだ。
「きみたちが探しているアランというサーファーを知る男たちと知り合った。ホクレア号の航海のためにタヒチから来た男たちだ。そのうちのひとりは、こんどの航海でナヴィゲーターを務める男だ」

「ほんとにアランを知っているのかい」
「間違いない。面白い話なんだ。想像だけでは、ここまで面白くはならない」
レイモンドの声を聞きながら、僕はデスクに腰を降ろした。そして外を見た。
アラモアナの空が見えた。冬の午後の永遠の悲しさの具現のような通り雨が、陽光のなかを過ぎ去った直後だ。

窓の右側の壁に、アランの尋ね人ポスターが貼ってある。微笑しているアランの顔写真の下に「このサーファーについて、情報の提供をお願いします」という文句が見える。
「ポスターを見て、絶対にこの男だ、とふたりは言っている」
「よし。僕がマウイへ出向こう。アランを探している女性をつれていく」

アラモアナの空が見えた。永遠の悲しさのような通り雨が、陽光のなかを過ぎ去った直後だ。

電話を切った僕は窓まで歩いた。眼下にある光景、走る自動車や道路、建物、アラモアナ公園の椰子の樹、そして向こうの海を、僕は眺めた。
電話機まで引き返し、ダフネ・ウォーカーの家の番号を押した。外出中だった。週末の買物でスーパーマーケットまでいっているという。

「マウイへいくのかい」
受話器を置いた僕に、ラリーが訊いた。
「ダフネをつれていく」
「彼女が初めてここへ来たのは、いつだったかな」
「3か月前だ」
それからハワイのサーファーのたまり場にアランのポスターを掲示し、南アフリカ、オーストラリア、西海岸、東海岸のサーフ・エリアにも配った。

「アランといえば、ダフネが撮影したあの短いフィルムのなかで俺がいちばん好きなのは、虹の出て来るとこだな」
ラリーが言うシーンを僕は思い出した。スクリーンの左半分が海岸、その向こうに海。右半分は岩山だ。カメラが岩山の突端をまわりこんで向こうに出ると、海から陸へ半円の虹が立っている。

虹の根もとは波に埋まっている。その瞬間、虹の根もとから、サーファーがテイクオフする。虹のなかからサーファーが躍り出たようだ。サーファーは虹に見守られつつ、長いサーフを滑っていく。静かな美しさの底から沸きあがって来る躍動感が、見る人の心を素手でとらえる。
電話が鳴った。
「ダフネだ」

ダフネのクールで明晰な声を、僕は受話器の奥に聞いた。
「明日、マウイへいくんだ。来れるかい。アランを知っている男たちを、仲間のサーファーが見つけてくれた」
「ぜひ、いきます」
彼女の家まで迎えにいくことを僕は約束した。アランの波乗りを撮影した短いフィルムを持っていくように頼んだ。

虹の根もとから、サーファーがテイクオフする。虹のなかからサーファーが躍り出たようだ。

階段を降りて来るダフネが、車から見えた。朝の陽ざしが正面から射して彼女は輝いて見えた。
「お早う。空港まで、ラリーが送ってくれる」
彼女は笑顔でラリーと挨拶を交わした。旅行鞄を後部座席に置き、助手席のドアを自分で開き、乗りこんだ。
ラリーは車を発進させた。

「もっと時間がかかると思ってました」
「3か月たってる」
「サーファーとしては知られていない人なのね」
「しかしアランの波乗りはたいへんな腕前だ。腕をあげるあいだに、かなりの波乗り仲間が出来るはずなんだが」
「サンディエーゴで2度、偶然に会って波乗りを撮影し、ふっと別れてそれっきり」

ダフネは波乗りの映画を撮っている。1時間15分の長篇フィルムを見せてもらったが、海と人間の出会いの情景をとらえることを主眼としている。波乗りは海と人間との出会いの一例にすぎないが、彼女の撮る波乗りは美しい。堂々たる静けさの彼方から、海の強さが黙々と伝わって来る。画面の流れは流麗だ。

撮りためたフィルムを編集し、音楽やナレーションを入れて作品に仕上げ、西海岸のサーフ・エリアをまわって有料の上映会を開く。その現金収入で次の作品を作る。西海岸のサーファーから、アランの波乗りをもっと見たいという声がさかんにあがった。その要望に応えるため、ダフネはアランを探し始めた。

彼女は笑顔でラリーと挨拶を交わした。旅行鞄を後部座席に置き、助手席に乗りこんだ。

ラリーの運転するマーキュリーは、カイムキの住宅街を抜けた。フリーウエイのH1にあがり、朝の光のなかを西に向かった。ワイキキの上空を、薄い雨雲が走っていた。
そんな光景を見ながら、3か月前、僕たちのオフィスに初めてダフネが来たときのことを思い出していた。

午後遅くのオフィスで、これから自分が撮影したフィルムを上映するけど、そこに映っているサーファーを探しているので、ご協力をお願いしたい、と彼女は言った。
初めのシークエンスは、すさまじいワイプアウトだった。曇天の空に向かって、海が盛りあがる。波は巨大な量感をたたえた濃い緑色の山だ。

分厚くそびえ立った波は、頂上から前へ倒れるようにせり出し、水のアーチを空間に張り出させていく。
まっ白に渦巻いている飛沫の頂上から、赤いサーフボードが飛び出して来る。腰を落としたサーファーが見え隠れしている。この大波を相手に、アランは頂上からまっ逆さまにワイプアウトして見せた。

波の頂上から空間へ躍り出たサーファーは、波に突きあげられ、アーチに突き飛ばされ、空中に舞った。
オフ・ショアの風に叩かれ、赤いサーフボードは水の壁を突き破り波の頂上に出て、飛沫の彼方へ木の葉のように飛び去った。
サーファーは飛沫に打ちのめされ、風に吹きとばされ、海に叩きつけられた。

まっ白に渦巻いている飛沫の頂上から、赤いサーフボードが飛び出して来る。

次のシークエンスは、モンスターのようなチューブ波との見事な格闘だった。巨大な水の壁が左から右へ、自らをチューブに巻きこみつつ走っていく。そのチューブを、アランはバックサイドで完璧にこなした。波乗りの妙技の向こうにあるはずのものを、彼は見せてくれていた。

ダフネのカメラ・ワークは、フレームの下部に波の手前の平らな部分をわずかにとりこんでいた。そこから波が立ちあがる。フレームのなかばを越えて、フレームの上部近くまで波の壁はのびていき、そこでおもむろに静止する。頂上からは、風にあおられた白い飛沫が、ぼうぼうとゆらめきつつ立ちのぼる。

波の壁は、前方に深くえぐれこんでいく。大きな弧を作っていく地点にカメラはいて、波に合わせて左から右へ移動した。もっとも深く湾曲した部分がスクリーンの中心にあり、波にのみこまれる恐怖を感じた。
アランはスクリーンの左にいた。波の壁に引っぱられ、チューブに追われ、必死に滑走を続ける。

4番目のシークエンスは、まっ白に泡立っているスープ波に乗って、サーフボードが運ばれて来る。ボードの上に、アランが、ゆったりしたポーズで立つ。ボードの先端には黒い犬。砂浜に向かって哮える。フィンが砂に食いこむ。アランが水のなかへ飛び降りる。黒い犬も水のなかへ飛び、砂浜へ走っていく。

最後は、サーフボードを片腕にかかえ、砂浜を歩いて来るアランをカメラがとらえる。濡れた肩や腕、両脚の筋肉の動きは、沖のサーフとやりあって来たサーファーだけが持つ、魂の軽やかさを表現していた。
彼がフレーム・アウトしたあと、沖のサーフが砕ける白さ、陽ざしのきらめき、海の青さが鮮烈だ。

アランはスクリーンの左にいた。波の壁に引っぱられ、チューブに追われ、必死に滑走を続ける。

カフルイ空港の外に軒をつらねているレンタ・カーのオフィスでファイアバードを借り、僕たちは島の西へ向かった。
マウイ島は、東西ふたつの火山がつながって出来た。東側が大きく、西が小さい。島は胸像のようなかたちだ。その胸像の喉もとにあたる部分がマアラエア湾だ。

マアラエア湾の近くに、ジョーというサーファーが住んでいる。農業にうちこむかたわら波乗りをしている男で、ファーマー・ジョーと呼ばれている。
濃い緑の森を背に、木造の四角い家が2軒ならんでいる。渡り廊下をジョーが作り、二軒の家を一軒につないだ。東側の建物の隣に車を停め、なかに入った。

「ジョー!」
と僕は呼んでみた。
ヴェランダの向こうに、男が姿を見せた。小柄だが頑丈そうな体格をしていた。
「タヒチからいらしたかたですか」
「イエス。バリーとダフネですね。私はピアイラグといいます」
僕たちは握手を交わした。もうひとり、男が姿をあらわした。ビル・ハミルトンといった。

ピアイラグとは親友で、タヒチからともにハワイまで来たのだという。奥の部屋に僕たちは話をする場所を見つけた。
壁に、アランのポスターがピンでとめてあった。
「あそこにいるアランは、影にすぎない。現実のアランは、もうこの世にはいない」
「では、アランは、どうなってしまったのですか?」

カフルイ空港の外のレンタカーのオフィスでファイアバードを借り、僕たちは島の西へ向かった。

澄んだピアイラグの視線が、純粋なダフネの視線に結ばれた。
「アランは」
とピアイラグは言った。
「海に降服した」
ダフネの顔に微笑が広がるのを、僕は横から見ていた。
「そのお話を、私は信じます」
ダフネが言った。
「アランの物語の前半は、ビルが語ってくれる」

「アランに初めて会ったのはタヒチのパペーテで、12月、雨期の午後だった。港の近くにいた私は、雨が降って来たので、酒場に逃げこみました。反対の方向から酒場へ走りこんで来たのがアラン。サマセット・モームが喜びそうな雨だ、とアランが言い、おなじテーブルで雨を見ながらビールを飲んだのです。

私は、貨物船でポリネシアの島々を往ったり来たりしています。アランは、自分はサーファーだと言い、南アフリカのダーバンや西インド諸島について語ってくれた。私はあることを思い出した。ピアイラグの貨物船が3か月に1度立ち寄るトゥアモツ郡島の南に無人の環礁があり、一夜を明かしたことがある。

この環礁のすぐ外にサーファーの白日夢のような完璧なサーフが出来ていた。僕は8ミリ・カメラで、そのサーフを撮影した。次の日の夕方、アランに8ミリを見せました。アランは興奮していました」
自動車の停まる音がし、人が入って来る足音が聞こえた。
「バリー」
レイモンド・カアイラウが呼んだ。

ピアイラグの貨物船が立ち寄るトゥアモツ郡島に無人の環礁があり、一夜を明かしたことがある。

レイモンドは、あぐらをかいて僕を見上げ、
「話は気に入ったかい」
と訊いた。
彼はハワイ屈指のミュージシャンの次男だ。タヒチの血が濃いことを物語るたくましい体は、あらゆる出来事を真正面からのみこんでしまうような大きさで、重くて静かな印象をかもし出している。

そして顔には悲しみがある。何百年にもわたって太平洋のまんなかで水平線を眺めて暮らした人々の気持の結晶が、レイモンドの顔には伝えられている。
彼に会うと、僕はなぜだか厳粛な気持になる。彼はハワイからタヒチまで航海するホクレア号の正式な乗組員のひとりだ。
「では、話を続けてください」

「3週間後、アランが訪ねて来ました。もう一度フィルムを見たあとで、この無人の環礁へつれていってくれ、と頼むのです」
ビルは同意した。
「その島に1年は住みたいとアランは言ったのですが、6か月後にピアイラグの船が定期航海の途中で島に寄り、アランをつれて帰る、とりきめに落ち着きました」

タヒチを出発したピアイラグの船は、島々を転々としながら、航海を続けた。無人の環礁に着いたのは、2か月後だった。
「アランは南太平洋の生活のペースを知っていて、乗組員になって働いてくれました」
ボートで荷物を島へ運びあげた。最後にアランが、赤いサーフボードを持ち、白い砂浜にあがった。

「私がアランを見たのは、その日が最後になりました」 
1か月後、島の近くをとおった別の貨物船の船長が手を振っているアランを確認している。
「3か月後、島へいきました。アランは、いませんでした。どの荷物にも白い砂がかかっていました。赤いサーフボードだけが透明な礁湖に浮かんでいました」

最後にアランが、赤いサーフボードを持ち、白い砂浜にあがった。

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