GR8EST〜十五祭。6人の関ジャニ∞が示したひとつの極み。あるいはここから彼らが挑む答え無き未踏の地について。
関ジャニ∞のデビュー15周年をお祝いする5大ドームツアー「十五祭」、9月3日の東京最終日に参加してきた。あまりにも圧倒的な“お祭り”だったので、「ライブを観てきた」というよりは「祭りに参加してきた」としか表現できぬような、熱狂祝祭空間だった。夏となると“音楽フェス”が日本全国各地開催されるようになって20数年経つが、今年は関ジャニ∞が7月14日から9月3日の間、各地でフェスを開催しているんだよな、と思いながら過ごしていた。昨年末、意を決して20年以上ぶりにジャニーズのファンクラブに入り、初めて自分で申し込み、通称「いつどこ」と言われる“当選したらどの日程でも行きます”枠で当たったのが初日の札幌公演だったがゆえ、祭りの最初も経験していた。この「札幌〜!行きますよ、全然」というテンションに仕上がっている自分に何度考えても笑う。そういうのはね、これまでのバンドやフェスに通う人生で鍛えられてきているのであれですが。笑
(札幌初日についてはこちら。)
ちなみにこの札幌公演、行きは、いつか乗ってみたかった関東からのフェリーで苫小牧まで行くことにしたり(帰りは普通に飛行機)、かなり久しぶりに、仕事でもなんでもなくひとり旅を関ジャニにさせてもらった気がして、とても爽快だった。たった3日間くらいだったのに2週間くらい仕事から離れていたような気分になった。
そんな初日公演に行きいたく感動し、しかしあまりの情報量に消化しきれておらず、初心者だからこそもう一度観ておきたいなと考えていたところ、東京の最終日に声をかけて下さる方がいて、奇しくも初日と最後を観ることができた。
最終日の東京ドームに限らず、毎公演日替わりでさまざまな歴代の衣装を着せこまれたメンバーのドールが場外に飾られていてファンは毎回それを楽しみにしていた。しかも東京最終公演では、なんとこれまでにグループを離れた内博貴くんと渋谷すばるくんのドールまでもが登場、2004年デビュー時の「浪花いろは節」の衣装でドール(GR8EST BOY)がまさかの8人ずらりと並んだことにより、この「十五祭」とは関ジャニ∞がここまでの歴史の何もかもをタブーにせず、すべての経験をひっくるめて己の強みとしていく決意のようなものが示されていたし、内も渋谷も、この先もある意味関ジャニ∞の一部であり続けているのだという宣言と感じられ、「なんと懐の深い軍なのか…」と、正直、最近の関ジャニ∞から“新規ファン”になった自分としてはもはや仰天するしかなかった。
しかも、各メンバーの名前がメンバーカラーのなかに記されたのぼりに加え、東京ドームでは関ジャニ∞が関わる様々な媒体やテレビ・ラジオ番組、個人からののぼりまでもがぐるりとドームを囲むようにそびえ立ち、圧巻の祭り演出がなされていた。この完璧に統一された祭り的アートディレクションの作り込み、ジャニーズのエンターテインメントスピリットと大阪出身ならではの賑やかな祭りセンスの融合に、ライブが始まる前からかなり前のめりの状態で人々は本番を迎える。
ライブの冒頭にも、15年間にあったさまざまな出来事を歴史絵巻調に仕立てたムービーが流れ、関ジャニ∞軍がいかようにしてこの状態を築き上げてきたのかが語られる。
本編が始まってしまえばもうそれはそれは盛り上がって会場が沸きに沸いていて、いつもは大阪や福岡でオーラスを迎えてきた関ジャニ∞が今回東京ドームで最終日を迎えることも相俟ってか、全編通じてひときわ熱い一体感を感じたし、最後、アンコールに向けて東京ドーム全体から「エイト、エイト!」というコールが聞こえてくるなかにいた時にふと、ああこの公演を形づくる一部になれたことにやたらと誇らしさみたいなものを感じ、「これがeighterになったということなのかもしれん…」などと、彼らを観る3回目のライブにしてやっと、自分も「エイター」を名乗ることを許可してもらえたような気がしていた。(彼らは、個性がバラバラなのに、いやだからこそ?結束がめちゃくちゃ強固で、歴史や結束を形作るひとつひとつの事象が思い出としてファンとの間でも共有されており、外から見ると非常にハイコンテクストだなあと思っている。たとえば「∞(エイト)」という名前やその表記・読み仮名の由来ひとつとっても、外野からは理解しようとするとひとつひとつエピソード密度が特濃。ゆえ、それらいろいろ辿るのは難しく、なかなかエイターって自分のこと言いにくい、という気後れ意識が私の中にはあります。普通の音楽のバンド観るのよりもやっぱりアイドルってオタク化しないと応援できないのかな、とちょっと心が折れそうになることはしばしばある。でもそれこそが醍醐味でもあるのかもしれない。)
と、まあそんな熱狂のほとぼりは冷めやらずまだまだ何も言葉にしきれていないうちに、メンバーである錦戸亮くんが21年間在籍したジャニーズ事務所を退所することが発表された。それを受け、この祭りがなぜにあんなにも凄かったのか、ひとつひとつの細かい部分に感じていたものすごいテンションの意味とはなんだったのか、あまりにたくさんの情報が襲いかかってきた。ああ、なんだかとんでもないものを観てしまっていたんだな、と、今になってかなり身震いし、それらを言葉にしきれないであろう自分の限界を感じ、正直なところかなり途方に暮れている。そもそも私はこのライブの感想を冷静に書くには、もう関ジャニ∞のファンになり過ぎているのかもしれない。……まあ、でもよく考えたら、冷静になって書くようなもんでもないですよね、祭りで感じたことって。てことで、いろいろ開き直ってもう少し書いてみましょうか……!
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それにしてもこの十五祭熱狂〜錦戸亮退所発表という短期間急展開に感情が揺さぶられ過ぎて、ショックでいろいろ泣けて仕方ないという自体に、自分でも結構驚いている。ああ、私こんなに関ジャニ∞好きだったのか、と、昨年の春にもわかったはずだったが、さらに思い知らされている。しかも、錦戸くん抜けても横山くん、村上くん、丸山くん、安田くん、大倉くんの5人はさらにこの先も5人で「関ジャニ∞」としてやっていきますと同時に発表したわけだ。その上、早くも11月から47都道府県をまわるツアーを始めるとまでいうのだから、もういろいろな意味を掴もうとするだけでもあたふたしすぎてもはや謎の涙が出続けるってもんじゃないでしょうか。錦戸くんがいなくなってしまうことの悲しみや寂しさで涙が出てくるのと同時に「毎度のことながら一気に発表する内容がいろいろ詰まりすぎてるよ!!!」と突っ込んで笑わずにはいられない。こちとら昨日やっと、今週着たEIGHTER Tシャツを洗濯できたばかりだというのに、今やこんなぐしゃぐしゃな感情に苛まれている、これ一体全体もう何だよなあ、と泣きながら笑ってしまった。(これについて「人はどのくらい感情の起伏に耐えられるのかという人体実験をされているようだ」というどなたかのツイートを見かけたが、まさに!!とこれまた泣きながら笑う。関ジャニ∞のファンはこういったグループのいろいろを共にしてきた百戦錬磨の方々が多数いる世界なので、彼らに対するツッコミもレベルが高い。)
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昨年、渋谷すばるくんがグループを離れると聞いた時に「ああ…やっぱり関ジャニのライブ、早く観ておかないといけなかったんだ」と結構なまでの後悔の念があった。彼らのライブは、周りから「絶対あなた、好きだと思うよ」と勧められていたのに、結局観たことがなかったのだ。そんなわけで、今こそちゃんと観たいと思い、昨年の9月8日、渋谷くんがいなくなってから初の6人の関ジャニ∞でのツアー「GR8EST」の東京公演を観に行かせてもらった。
この時の公演は、7人の関ジャニ∞を長年観てきたエイターの方たちにとっては本当に切なくも心強さを感じるものだったのだろうと思う。しかも安田くんがまだまだ怪我から回復しきれてもいないなか、行われたものでもあった。でも、私のような7人時代にツアーに行ったことがあったわけではない人間にとっては「いや?まってくれ、6人であっても全然すでにすごいよ?!」としか言えないくらい輝かしいものだったし、彼らの持つ揺らぎ自体があまりに美しかった。この時、私は「ずっと関ジャムで観て好きだった関ジャニ∞」が自分のなかでひとつ大きく更新されていく嬉しさを感じた。しかも、なんだかとても貴重な、彼ら自身の変化の時に居合わせさせてもらっているのもよくわかり、そのこと自体の貴重さを噛み締めていたように思う。
人の心を動かすのは、切ないものやどこか頼りなげなものだったりする。盤石の強さを携えたものよりも、そういう揺らぎの波動を発しているものにこそ、個人的には途方もない美しさを感じる。おそらくこの1年半ほどの関ジャニ∞6人期にはそういう魅力がぎっしりと詰まっていた。だからこそ私はこの時期に、彼らから目が離せなくなってしまったのだろう。そうやって昨年の「GR8EST」ツアーで感じた揺らぎと結束の美しさの由縁は、2019年に入って1月にこのツアーのDVDを買い、そこに入っているメイキング映像を観た時、確信に変わった。こんなにもギリギリの状態で、皆が迷いながらあのツアーを作り上げていたのか、と。錦戸くんが、すばるくんがいなくなった部分も、音楽アレンジ面などがっつり引っ張っていこうと、全員が集まれる回数的にも非常に限られたリハーサルの機会のなかで挑んでいく様子を見て、息を飲んだ。こんなことして、しかも錦戸くん、大河ドラマもやってきたのかい、と。こんなのどれだけ強い人であってもさすがにはち切れてしまうよ、と。個人的には、このDVDを観たのとほぼ同時期にハイスタンダードの映画「SOUNDS LIKE SHIT」を観ていたのもあって、バンドのバックストーリーにある途方もない緊迫感にかなり似たものを感じ、打ちのめされてしまった、というのもある。関ジャニ∞、このままでは全員がまずいだろうし、とにかくとにかく、しっかり休んでほしいな、と遠くから願った。そしてそんななか噂として週刊誌で出た3月の錦戸亮脱退報道。火の無いところに煙は立たぬ。「まあ、GR8ESTのあのメイキング観たら、そうなってもおかしくないよなあ…」と自分に言い聞かせつつ、かなり落ち込みながら、でもGR8ESTツアーに行けたことはありがたかった、と思っていたらば、なんとすぐに15周年ツアーが発表された。(しかし錦戸くん自身から「脱退とかないです!」という明確な言葉は無かった。別にそのこと自体は私は気にしていなかったが。)思えば、この時からいろいろな覚悟はできていて、札幌初日のライブ前に、気づけば20年以上ぶりのジャニーズうちわとなる、錦戸くんのうちわを買っていたのも「亮ちゃん、どうかこれからもエイトで、宜しくお願いします」という意思を勝手に込めたからだった。(錦子、かわいいでしょう?)
ゆえ、9月5日に退所が発表になった時の心の中は無風というか虚無で、不思議なくらい「どうしてだろう」とはほとんど思わないのだった。それはきっと、GR8ESTのツアーで観たとおり、バンドとしての関ジャニ∞があまりにも美しく、そういったところでやり尽くした部分は大きかっただろうな、と思えたし、その上、こんな途轍も無い祭りまで作り上げてくれて、今は錦戸亮はもちろん、関ジャニ∞全員に感謝の気持ちしか無いわけだ。だから、最初の感想としては、「錦戸くん、了解したよ。もう本当に本当におつかれさま。寂しくなるけれど、みんなとにかくこの2年分の疲れをとるべく、身体を休めてほしい」と、それしか出てこなかった。
しかも、本当に冒頭に書いたように「十五祭」というライブ自体がエンターテイメントショーとして唯一無二の弾力性を持っていたものだったので、本当に3月の頃に感じた不安や諦念など、ライブを観ていると吹っ飛んでしまっていたのだ。ものすごく能天気に楽しませてもらっていたし、オーラスの日のバンド、関ジャニ∞における錦戸亮はあまりに輝きすぎていて、まさかあれが最後だなんてむしろ誰も思わなかったろう。というか、今でも信じられないくらいに、かっこいいままの姿で錦戸亮は関ジャニ∞を後にした。あんな最高潮の姿がラストだった、と言われたら、もう誰も何も責められない。ぐうの音も出んですよ。
そのくらい、「ローリングコースター」「Tokyoholic」「勝手に仕上がれ」といったバンド曲における錦戸くんは、今までテレビやライブ映像で観たことあるなかでもこちらがもっとも心に留めておきたいと感じる状態だった。この日のライブが終わってすぐ友人に「ローリングコースターのイントロなくて、1音だけ入るあのギターの音!あれが今日一番印象に残ったわあ」などと言っていたのだが、本当にそのくらい、いい顔してたしいい音出していたし、歌も最高だった(←あの3曲を表現する語彙が見つからず、困っています、今。こんなシンプルな言い方しかできない。酷い)。関ジャニ∞がバンドをやってくれたことで私のようなバンド好きが彼らにしっかりと出会うことができて、しかもアイドルとしての魅せ方のスキルもそこには乗っかっていて、東京ドーム全体が、アイドルファンもバンドファンもごちゃまぜになってここで最高潮を迎えている、というその現象が、あまりに唯一無二だった。
でも、東京最終日、本編最後に披露された「咲く、今。」の神妙さは、正直かなり恐ろしかった。
このツアーの演出上、最後のメンバー全員からのメッセージが全ての会場共通でVTRで流れるのだが、その際、大倉くんが6人目として最後に「最低で最弱な時の僕らも愛し続けてください」と話し、「これだけ個性のあるグループ。だからもしも別々のタイミングであっても、たとえ違う場所であろうと、いずれはきれいな花を咲かせてくれるといいなと僕は思っています」という言葉で締めくくる。その後に歌われるこの「咲く、今。」の歌詞の重なりなど、ツアーが始まった初日から、歴の長いエイターの人たちの中では意味深にとらえられているようだったが、札幌では私は気づかないふりをしていた。でも、東京はさすがに背筋が凍るようだった。
それまでが最強の関ジャニすぎて、完全に楽しいだけですべての疑念を忘れさせてもらっていたが、「あ」と何かに気づかずにはいられない震えというか、周波数を受け取ってしまったな。それは歌詞に込められた意味がどうこうというよりは、今が最高すぎてこのままパーンと弾け切ってしまうのかも、というような。
そんなわけでもちろん「咲く、今。」はちょっと意味がありすぎたし、アンコールで15曲もシングルメドレーを一気に披露していたのも、いろいろな意味として受け取れてしまうだろう。しかもそれは実際にたくさんの意味が込められていた、というわけだ。
でも本当に、あの日のあの場は大団円だった。もう今、これ以上のものは無い、ということがわかる状態で、錦戸亮はここまでのピークをパッケージしたままでこの場から送り出されていったのだ。え、そんなかっこいいの普通、信じられないだろと言いたくなるくらいに、あまりにかっこいいまま、である。錦戸くんは最高にやりきったし、あんな風に送り出される彼は本当に幸せ者だし、そうやって送り出した5人の気持ちは、もうオーディエンスにもきっと計り知れなさすぎるし、考えれば考えるほど胸がつぶれそうなもので、何もかもが未だに言葉にならない。3月にはひとり抜けるということが決まっていた状態で、でももしかするともしかするかもしれない(錦戸くんが残る、という選択肢)という猶予も5人は残しながら、この夏の盛大な祭を走りきった、6人。そんな美しすぎて残酷すぎて、でも最高なエンターテイメント、壮絶すぎやしませんか。疑念のことも忘れきってしまうくらいに参加したファンたちは極上の気持ちにさせられていた。そして終わってすぐに、「どうしてもこの特別な周年は6人で走りきり、ファンの皆さんには純粋に楽しんでほしかったので、発表を控えてきました」と言われ、誰もがそれを咀嚼するのに、きっとこれからしばらくまた時間を要するのだろう。しかも間髪入れず、これからは5人の関ジャニ∞となり、次のステージを既に企画している、といってきたのだ。もうさすがに度肝を抜かれた。
6人の関ジャニはここまでとなるが、彼らがこの15周年で伝えてきたことにも嘘は無く、ただただ、そのあり方すべてを自らのエンターテイメントの中で伝えることに死ぬ気でこだわり続ける関ジャニ∞に底知れぬ力を感じる。これぞジャニーさんの教え、そのものでもあるのかもしれない。
札幌での十五祭の初日、ちょうどジャニー喜多川氏の葬儀2日後だったこともあり「僕らを生み出してくれたジャニーさんにも拍手を!」と村上くんがMCで紹介し、画面にはThank you ジャニーさんという旨も映し出された。今となっては、その時には錦戸くんは次の道への腹をくくっていたわけだし、でも限りなく低いながらもそれがもしかしたら覆るかもという可能性を保ったままだった関ジャニ∞は、ジャニーさんにそのことを伝えられていなかったのだ、という事実も、今になってファンは知る。なんとも残酷なまでに繊細で不器用ながら、温かく、力強い。大倉くんは5人でやっていく&錦戸亮ちゃんが抜けるに際して、自身のラジオでファンに向けて手紙を読んでいたが、このコンサートのすべての演出に意味を込めた、と話してもいた。そこかしこに意味が詰められていたのだと今になってわかった参加者たちは、ここからしばらく、壮大な祭りの記憶を反芻し、寂しさや喪失感を抱えつつも贅沢な余韻に浸る。そこまで含めての、「十五祭」というエンターテイメントだったのだろう。なんという祭りの後の切なさであることか。切なさの象徴として“祭りのあと”とはよく使われる言葉だが、こんなに祭り自体に切なさが詰め込まれていたことが後になってわかる祭りも前代未聞である。関ジャニ∞のイズム溢れる伝え方に、今はただただ、感心することしかできない。
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こうなった今、昨年末に発売になった「CUT」や、今年の春先に出た「音楽と人」のインタビューや、そのグラビアでの表情など見返していても、様々なことが伝わってくるし、すばるくんいなくなってからの激動の時を、彼ら自身が激変しながら悩み抜きながら過ごしていたのだということが改めて痛いほどに理解できる。残酷な答え合わせでもある。けれどもそうやって彼らは全員で話し合いを重ね、この先のそれぞれの道をまたここで選んだのだ。
関ジャニ∞は、この先も続く。
ある方がこのようなツイートをしていて、きっと本当にそうだなあと思った。
その最終回にギリギリ自分は少しだけ間に合ったのであれば、ある意味ラッキーだったのかもな としみじみ思う今日である。(ただ、もはやエンドロールだけ観たような状態なのかもしれないので、この青春編、後追いでもいいからもう一度冒頭から追体験しないと真のエイターにはなれないのでは、と思ったりもして、覚悟を決めようとしているところである…大変なグループを好きになってしまったかもしれないな。。)
こうして長く続いた7人での輝かしき青春期が終わり、大人になって、別れの寂しさをも内包しなおこの先も続けると決めたこのグループが一体何を生み出していくのか。 「大人」になるのだ。そのことに想いを馳せると、既にめちゃくちゃ面白い。村上くん曰くの「他の人もなかなかできない経験をさせてもらった自分たちにしかできない」何か。凄い領域に踏み込み始めているな、と。
また、錦戸くんについても、関ジャニ∞自身が、錦戸亮がどれだけ凄い人間かをいちばんよく知っているからこその、今回の状態になったのかな、と、これは勝手に、思っている。この錦戸亮の魅力はもっと世に広まるべき時では、ということを、本人たちがいちばんよく知っているんじゃないかとすら思う。
もちろん引き止めはした、と言うが、懐の深すぎる彼らは、それを今回、自分たちの手元から最高の状態のまま、放った。またきっとマンネ的に可愛がられ錦戸亮さん自身も、大人としてひとりで何ができるのか、本当に真剣に考えた結果なのでは、と勝手に思っている。この先もう、彼らの“わかりやすいかわいらしさ”が見える比重は少なくなる可能性も高いのかもしれない。けれど、新若頭、大倉君が率いていくこの雰囲気。可愛がられた“亮ちゃん”とは全く別の、真の末っ子ゆえに全てが実は見えていて、今になって頼りたくなる最年少弟・大倉忠義の魅力に垣間見えるように、きっと全員が30代半ばに差し掛かった大人の男性としての何かを、きっとそれぞれが追求しはじめるのかなあと思ったり。思わなかったり。それはまだ誰にもわからない。
ちなみに錦戸が抜けて歌はどうなるか、等もよく言われるが、「え、メインボーカル脱退とかゆうてますけども、個人的には、エイターの皆さんは既に百も承知の、大倉忠義のあの低めの美声というキラーコンテンツ、全然まだテレビ的にはお披露目足りてないのでは!」とか憤慨したくなるほどには、正直、手を替え品を替え、彼らの戦力は底無しだとも思う。バンドも是非このまま続けてほしい。何なら、関ジャム的に、ボーカルを外から迎えるようなセッションすらも、ライブでやってみていってもらいたい。ジャニーズのコンサートでそういった形態や、対バンみたいなものってほとんど見たことが無い気がするが、そういうことができてしまう自由さを、今の関ジャニ∞は既に兼ね備えているはずと思う。
何より、ここから47都道府県行脚してやるというそのバンドマン的現場主義というかなにくそ精神に拍手喝采です。個々の仕事もあろうなか、完全にネジが飛んでいる判断こそが、関ジャニ∞そのものだ。
個人的には、6人になってから入り込ませてもらった関ジャニ∞の“エイターテイメントショウ”のめくるめく世界。バンド という形態すら、エンタテイメントのひとつの手段としてモノにした彼ら。
正直、今はまだ錦戸亮に盛大にフラれたような気分がたまに襲ってきて、謎の郷愁と寂しさばかりに打ちのめされてもいるが、初めてライブを観てからたった丸1年で、こんな境地に立たされるとは思ってもみなかったよ!関ジャニ∞!!と笑えもする。
この1年、いろいろ追いつくだけでも大変で、やっと昔のネタとかわかってきたところだったのになあ。(アイドルは、バンドよりもその人生そのものを応援してもらう構造になっているのでとにかく知っておくべき知識が多いのだ…。)
さあ、伝説の深夜番組「関パニ」のDVDでも観るところからまた始めてみようかな。
ともあれ、これからの関ジャニ∞と錦戸亮さんに、最高の幸あれ!
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