ブラッドベリについて
自分の原点は文学ではなく「松谷みよ子」の日本の伝承、昔話だ。
そこから物語の面白味という物は人間という物の原則、ルールがあると感じた。
基本的に作品という物は教訓が無ければカタルシスが発生しないはずだ。
つまり、ただの羅列の文章という物はいかに難解な専門用語を使っていてもまるで意味が無い、からっぽだ。
読書というのは各作家の中にある軸を見つける事、ロジックに共感する事だ。
これを暗記というやり方でショートカットし、ただ知識だけを増やして行ってもおそらく何も得られない。
どんなに点数が上がっても景品は得られない。
有名文学をただ読んだとしても、文字を追っただけ、目と指の運動をしただけだ。
結局はどんな物でも感性、論理が重要になる。
無理矢理行かされた学校の勉強はルーチンワーク、工場での流れ作業のように感じる。
自分の世代に於いてもっともポピュラーだったと思われるのは「星新一」のショートショートだったと思うが、自分の場合そのポジションには「レイ・ブラッドベリ」が入る。
星新一は落語の様にオチを付けるのに対し、ブラッドベリの場合はなにか「余韻」というか、何とも言えない寂しさ、もの悲しさ、無情さ、あるいは「ささやかな幸せ」をオチに持ってきたような記憶がある。
学生の頃の自分はいつもブラッドベリの文庫を持ち歩いていた気がする。
情けない事かも知れないが、この他人の小説がアイディンティティに直リンしていた。
悪いモノを洗い流し、自分が浄化されるような気持になった。
この作家は日本で言えば「宮沢賢治」にあたるのかもしれない。
それくらい、心を透明にしてくれた。
気味の悪い人間達の生産性の無い精神汚染を防いでいてくれた気がする。
この経験から思うにクリエイターこそが本当の聖者であるのは間違いない。
おしまい
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