スト6から観るeスポーツの動向


どうも、風向きが変わった。


おそらくこのジャンルをガチで伸ばそうとしてる気がする。

そもそもゲーム産業だって多分に漏れず、
外資に取り込まれたであろう消費文化に観られていた気がするのだ。

しかし今のこれ、ガチでアウトドアスポーツに代替しうる流れだろう。
なにしろ「不知火舞」なんてポリコレ違反も甚だしい「エロキャラ」だ。
それがお咎めなしなら、外資から相当に優遇されているはずである。

「特異点」


おそらくこれ、産業としての経済効果云々じゃ済まない、
個人的には裏には巨大なプロジェクトが発生してる気がするワケだ。
メタバースやVR、あるいは人間工学的なAI学習システムが隠れてる。
サウジが絡むくらいなら、おそらく政治も介入してそうだ。
或いはムーンショット計画、オーバーロードの世界観が頭をよぎる。

スト5までの流れだと、そこまでの展望はまだなかった。
まぁ投資家の焼き畑ですぐに食い物にされるんではないか?と。
バブル後同様に中間搾取が介入し、妙な流れになって、
今儲かれば何でもするようないずれは先細りの展開だったはずだ。
バブルの欲ブトラー残党が生き残っているなら、これまでの過去同様に、
多くの有能な人材は企業から排出されフリーになっていった気がする。
言い方を変えるなら、分業による「工場化」の流れだ。

確か「K-1グランプリ」もボブ・サップへのピンハネによって地に堕ちた。
モチベが利己、金目に変わればすべての分野は徐々に衰退するのである。
これが日本の衰退と直結するのは明らかだ。

まぁ本来ならアホでも判る感覚だが、競合という愚民洗脳によるモノだ。
バカになるほど優位になる社会システムの実害、
信用を売って全体リソースを減らすカルト洗脳の成果だろう。

過去には粗製乱造のどうでもいい作品が評価されるムーヴがあったし、
自分などはそこに異を唱えれば、洗脳済みの暗記マンに散々叩かれてきた。

まぁああいうモノはあちらからは全てが営業妨害に観えるのだろうし、
かつてまっとうな批評をしていた筈の「ゲーム批評」は煙たがられ、
どうにもならない業界通が全体を悪い方へと誘導していったはずだ。

そもそもがプロデューサー主導の作品なんて、
既存の需要を鈍い嗅覚でかぎ取っているだけ、パイを増やせる脳が無い。
クリエイター主導の「ドラクエ」と
判りやすいプロデューサー主導の「ファイナル・ファンタジー」では、
やはり作品の印象が違うのだ。

同じナンバリングタイトルでもドラクエは得した気分があったし、
逆にファイナルファンタジーはなんか手のひらで踊らされる感覚があった。
作品の中の新しい発見に乏しいのだ。

まぁこれ、すれっからしの自分のハードルが高すぎるからだろうし、
エルリックサーガを先に知らなければFF世界にも新鮮味があっただろう。
林立する尖塔と飛竜のイメージはエルリックの世界だろうし、
FF2の自己犠牲のテンプレなんぞ使い古された「里見八犬伝」のパクリ、
当時は補填されないイベントによる主戦力の脱落で進行不能になり、
あれ自分にはやっすい感動すらもたらさず、バカにされた気分だった。

天野喜孝のブランドもキマイラシリーズやムアコックの挿絵を観た後では、
彼がいかにやっつけ仕事でゲームジャンルが安く扱われていたかが観える。
名義目的の依頼であって、当時は多分ちゃんとした注文がされず、
天野氏の顔を潰さない為に強引に採用した気がする。
(これ、あくまで推理)
本来、どんな著名な絵師だとしても作品に合わないのならボツだ。

当時の天野喜孝は鳥山明の対抗として抜擢した名義であろうが、
鳥山明がスライムをはじめ多くのキャラクターをオリジナルで作画し、
戦闘場面にどう配置されるかを想定したうえで造形したのに対し、
天野喜孝の作画をそのままゲームに持ち込むのは絵面が汚れるだけ、
重心の狂った左右非対称の敵キャラの単色のドット絵面は汚かった。
作品のクオリティが明らかに戦闘シーンだけ下がっていた。

鳥山明はゲームを理解し、逆に天野喜孝は何も知らなかったのだろう。
この「ゲーム愛」の有無によって同じ名義貸なのに本末転倒の効果を生む。
プロデューサー主導だと作品に対する思い入れの密度が明らかに違うのだ。

真逆にもかかわらず、DQ・FFの両タイトルは何故か「同格になっていく」
この結果、ゲーム産業はクリエイター主導でなくとも、
見え見えのマーケティングよるビジネス的な成功は得られると証明された。
ユーザー中央値の需要における最大値が商業的な答えを出したという事だ。

こうして半熟ヒーロー等に観られたスクエア独自の作家性は消え、
徐々に商業的なブランドに変化していったのを思い出せば、
アレもナムコやデータイーストのブランド変化と同じニュアンスだった。

ゆえに当時、嫌な予感がしたものだ。
こんな利益主導で行った場合、需要の飽和を避けられないからだ。
今は良くても先はない。

どのような亜流でも、先に手に取った作品がユーザーに刷り込まれる。
オリジナルと同じ内容であれば真贋は見分けられない。

これだとパイオニアより後追い競合のパクリが圧倒的に有利になる。
楽した方が得であり、浮いた分を接待やら広告やらとにコストをかける。
当然だが、研究開発の過程をすっ飛ばした方がコストは安いのだ。
安月給のみじめな末端クリエイターより、お偉いさんに取り入った方が、
それぞれの個人的な社会ステータスだって上がるのだろう。
釣りバカの浜ちゃんが有利という事だ。

利己と利他、物質とマインドの入れ替えが発生してゆく。

これによって個人的リビドーは満たされるが、総合マインドは低下する。
つまり「トータルリソース」が減ってゆく。
手間暇かけずにやがてゲーム分野はルーチンワークのジャンルになると。
それが任天堂が嫌った粗製乱造の「アタリショック現象」に向かうのだ。

格ゲーを生み出したカプコンは短期間に作りこみの浅い作品を乱発し、
「ウォーザード」あたりから、一気に作りこみが浅くなっていった。
これはSNKを含む他社によるパイの奪い合いによるものだろう。
対戦としての可能性を色々やれそうだった格ゲーのパイは競合され、
焼き畑、底引き網漁法へと舵を取らざるを得なくなってゆく。
未来へのヴィジョンが消え、目先の欲に目がくらむ流れだ。
「悪化が良貨を駆逐する」。

これがスト6の成功により、

潮目が変化した。


ネタばれになるが「進撃の巨人」における、始祖ユミルのイメージの中に、

「光る大きな木」があったハズだ。


全エルディア人の始祖としてのユミルの呪い、モチベのツリー。
フラクタルな因果の繋がり、それが子々孫々へと引き継がれると。
これが「コミュニティ全体が共有するロジック」の形成だろう。
これが言語であったり、文化、価値観、精神性のツリーだ。
あれはそういうニュアンスの木だと思っている。

おそらく格ゲーの萌芽はストⅡのクリエイターによるモノで、
そこから生まれたプロゲーマーの始祖はウメハラだ。
彼らの言葉は明らかに学歴主義者より筋が通っているのである。
そのクリエイターである彼らのモチベ、一貫性の背骨である「道」、
その背骨、幹から枝葉を派生させた様々な精神共鳴によって、
新たな文化が産まれ、徐々に新しいフラクタルの巨木が育つと。

「武道」であろうが「学問」だろうが、「茶道」「華道」、
おそらくどんな「道」でも筋を通せばある程度の同じ形を取るはずで、
それが本来あるべき自他を超えた共同体の姿だろう。
他人の価値に乗るのではなく、それぞれ自分だけの価値観。
誰もが同じ人間ならそれぞれ本来これを目指せばよかったのだ。

公正なリスクリターンによる経済循環、
様々な別ジャンルからの相補関係による社会形成により、

「巨大な需要が産まれる」と。


戦後失われていった本来のビジネスの形だろう。
これまでの様に減らすのではなく、育てる事で増えるのだ。
未来に繋がるヴィジョンだろう。

と思った。
なんせ、反面教師があまりに多いからね?


おしまい。

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