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仏様を私物化してはならない、仏像の意味 写真を撮る理由 宗教家の怠慢/仏教、写真

今回はかなり長い文章でまた

宗教家 信仰者に対してのことが

書かれてあります。





大きな組織になればなるほどルールを優先とし

多数決で決め大事な真理を無視してまで

組織を守ろうとする。

こんな者がどうしたら学び実践し真理を

悟ることが出来るのか?

どうしたら平和活動と言えるのか?

口や体は動かせば誰でも出来る。

だが心は磨かなければ清らかにはならず

真理は見えてこないのです。



突然ですが

写真というのはただ構図を決めて撮るものでは
なく 対象と向き合い一体となり調和が生まれるそこで始めてシャッターを切るものだと
思っているのですが、それは何故かと言うと
仏教で言う仏性礼拝行と言うからです。


仏性とは

どんな命にも水であろうが草であろうが
土だろうが木であろうが空気であろうが
その奥には仏性というものがあり
仏様と同じ心という意味です。


その仏性を信じ感じ取り己の我を捨てきった

無我の状態になった時に対象との一体感が
始めて生まれるのだと思う。

だからそんな簡単なものではないのてす。


先ほどもお話しした通り

写真というのは仏教の真理から観ていけば

撮る対象の仏性を写し出し己の心を磨き清め

それを見てもらい他の人にも幸せにって

もらえる尊い善業 菩薩行なのです。

その写真を撮るという行為を見下し

軽視するような態度をとるような

者もいるのです。


私は常々疑問に思う事がある。

何故 木像の仏様を撮ってはいけないのか?

全く持って意味わからない。 

外に建立された石像は良くて

木像や本尊はダメというのは

誰が決めたのだろうか?


無論 マナーを守るのは当然の事でそれが

大前提であり人の迷惑になるような撮り方は

論外です。


それを踏まえてお話しさせてもらうと


石であろうが木であろうが銅像であろうが

仏様である事は変わらず

冷静に考えればおかしいことは

ハッキリしているし

そんな事はお経には書かれていないはずだ。

ましてや許可を取ったり写真家だけなら良いとか

ただの立派な偏見であると私は思っている。 

良い悪いと偏るその心が苦しみを生むと

お釈迦様は悟られているのです。


お経に

『一眼の亀の浮木の穴に会えるが如し』

という一説があるのですが

仏様に出会うというのは

亀の目は視野が狭く 尚且つ片目しか見えない

状態で海に浮いている浮木の穴を見つける事が

困難なぐらい仏様と縁を持つのはとても

奇跡的な事だというのが書かれてあります。


 恐らくそれに倣って仏像を秘仏としているので

はないかと思います。


ちなみに

仏像というのは人を現したものではないのです。

仏像は法 即ち仏教の教えを表したものであり

その法に無抵抗に捧げ帰依していく

対象であります。


その時に何か対象がないと人は拝みにくいものです、ですので一番イメージしやすい人間の形に
して法を拝めるように造られたのが
仏像であります。


ですので先程話したように石だから良くて
木だから駄目という考え方は物質的なもので
物を見るためその奥にある仏様の心が
仏性を見ていない偶像崇拝の精神であると
思います。

それでは仏像の意味がありません。



法師品というお経にこう書かれてあります。


舎利を安ずることを須いず。所以は何ん
此の中には已に如来の全身います


とお経に書かれてあり

どういう意味かと言いますと

仏塔、所謂仏像のようなものを建立しても

仏舎利は必要ありません、何故ならば

この仏像の奥には如来がいるからです


どんな物質 どんな存在にもの奥には

仏様の命 心というものが存在している

だから仏舎利などは必要なく

見えるものではなく見えるものの奥にある

仏の心を観ていきなさいとお釈迦様は

教えてくださいます。


ですので写真を撮るという行為は
その1つの方便であり仏様との一体感
そして己を仏様に捧げきり帰依する姿であると
私は思うのです。


それをしてこそ仏像に対し礼拝する
意味があるのです。決して仏像だから
有り難いなどといって仏像という
物質に手を合わせてはならないのです。



先程の話しに戻りますとそうして仏様に中々

出会えないという事を表したことによって

秘仏扱いしているのならば

縁を持ったものだけが

救われる世界になってしまう。


仏様はそんな小さいことは言われません。

仏様は一切衆生は我が子だと

はっきり申している。


仏様と御縁を持たせてもらっている私達が

その仏様との御縁を結べるように努力し

広めていくことが大事なのだ。


いつまで仏様を私物化し特別な人だけしか縁を
持てないようにするのか?甚だ疑問であります。

どんどん縁を持ってもらい幸せになって欲しいと

願うことが仏様のご新意ではないかと

私は思います。



昔 円空という仏師がいました。

仏師とは仏様を彫る人の事です。


円空は村の人の家に泊まらせてもらうと

一宿一飯の恩義として仏像を彫ったそうです。

それは恩義だけでなくどんな人にも仏様との御縁を持ってもらいたかったからだと思います。


昔は政治家のような位の上の人でないと教えが

聞けない時代がありました。

一般市民は色んな苦しみがあり何とか救われたい気持ちであったと言います。

円空はそんな苦しんでいる人を救いたい一心で

仏像を彫り手渡したのだと思います。


他にも

法然上人という高僧はそんな苦しんでいる人達に仏様と縁を持ってもらいたくて南無阿弥陀仏と唱えれば救われると信仰のない人達に教えを
広めました。


日蓮聖人も南無妙法蓮華経と唱えていくことで

救われ成仏出来ると教えを広められ

それはひとえに仏様の教えを知って
救われて欲しいという一念であり
お題目を唱えるだけで救われるというのは
方便であったと思います。


今の昨今は自分達だけのことしか考えていない
新興宗教団体があり人が困ったり苦しんでいたりはたまた殺されかけている人にすら手を差し伸べず他人事のように私達のルールでは
貴方は救えませんと門前払いをするような
『人でなし』がいる始末です。

そんなときでもルールを最優先するというのは

どういう精神なのか?まさに狂人です。



お釈迦様が御在世の頃お釈迦様に会いに来た

一行がいました。

その道中 病かかった者がいたのですが

お釈迦様に会いたい一心でその人を一人残し

お釈迦様の元に行きました。


それを聞いたお釈迦様は

『病人を看ることは、私を看るのと同じである

   病人を看護することは、私を看護するのと

   同じである。

   私も常に病人を看護する事を願っている。

  これは最上の布施であって、これに過ぎる

   ものはないからである。 』


病人のことを心配しその人の思いになって

看病するというのは慈悲の心です。

その慈悲の心こそ、仏様と同じ心なのです。

だからこそ看病するという所に仏様と

お会いしているとお釈迦様は申しています。


その病人を差し置いて自分のしたいことやルールを優先し組織を守るというのは仏様の心とは全く逆の行いだと言っているのではないでしょうか。まさに今の新興宗教団体と同じであります。





さて話は戻りますが

写真を撮るという行為は先程申したように

仏性礼拝をする修行であります。

これは己が真理を悟り仏様に一歩でも近づく

ための方便であります。


それを知らないのはそこまで修行もせず

教えを求める心もなく全く実践をしていないため

視野が物凄い狭いのです。

ですので写真を撮るという行為が安易なもの
として受け止めるので否定するのでしょう。


仮に仏像写真を撮りSNSにあげて

それを見た人が救われるかもしれません。

見たことによって仏教に興味を持ち真理を

悟るかもしれません。


そういうふうに今の時代を見て方便を使わないと

時代に取り残され広まっていかなくなるのです。 

今までのルールに縛られ自分達だけが正しいと
思い込み幸せな思いをしヌクヌクして
だらだらしている事に反吐が出る思いです。
そんなものは腐れ根性であります。

大切な優しい心を摘んでいくそういった言動は

本当にこの世を駄目にする最低な輩であります。



世の中にどれだけ真理を知らず苦しんで彷徨っている人がいるかわかりません。

欲望を満たすために権力争い 地位の奪い合い

戦争や争い、自然災害や貧困による生活苦、

人間関係や容姿のコンプレックスやいじめに

夫婦関係、病など

挙げたらきりがないほど苦しんでいます。


こんな辛い思いしている人を何とか導かなければ

と強い决定をする信仰者はいないのだろうか?

私はそんな人に私からなっていきたいと

思っています。


いつまでも仏様を私物化し広めないような

その心は悪行と呼ばざるを得ないのではないで

しょうか。 そんな悪人が一刻も早く

目が覚めることを願うばかりです。


皆さまが本当の人間の姿をとりもどすまで

願い祈り念じお伝えし続けていきたいと思います。




長い文章で読むのもお疲れかと思います。

一気に読まずとも時間をかけて読んでくだされば

幸いです。






偶然にも出会えた日蓮大聖人


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