加賀谷卓史
仏教に関わることをまとめています。
日々の気づきを綴りたいと思います。
詩をまとめたものになります
こんなお話しがあります。 ある所に一羽のオウムがいました そのオウムが住んでいる森が大火事になり オウムはこの火を 消さなければとくちばしに水をつけ 1滴1滴森に垂らします それを見ていた他の鳥や動物は オウムをバカにして笑っていました。 ですがそれを見ていた帝釈天が その健気で純粋な姿に感動し 大雨を降らしてくれます。 その雨によって森は鎮火したそうです。 これは説明するまでもないとは思うのですが 森とは欲望で燃え盛るこの世界です オウムとはそんな世
皆さんご存知のように 宮沢賢治さんは百性でありながら 作家でありました。 そしてあまり知られていないかもしれませんが 法華経行者でもあります。 父が念仏信者で若い頃 法華経と念仏どちらが 凄いのかと言い争いをして家出をしたのち 東京で一人暮らしをしながら国柱会という 宗教団体に入り法華経を学びます。 そんな生活の中 宮沢賢治は小説を書いていました。 宮沢賢治はその小説に法華経の精神を宿したと いいます。 と言うことは みなさんは知らず知らずのうちに法
車椅子テニスプレイヤーの小田凱人さんは 「練習をしても結果が伴わない場合どうしたら よいか?」という学生の質問に対し 「どんな結果でもやり続けることが大切だ」と 言っています。 結果というのはいつ出るかわかりません それはこちらで決められるわけでも 相手が決めることでもないものです。 つい人はいついつまでに結果を出せとか 自分でいつまでに出来なかったら辞めようとか 決めて 自分は駄目な奴と自らにレッテルを 貼ります。 そんな事はしなくて良いの
先日TVで 中国のがん専門病院に入院している人を 取材する番組を拝見した。 その中の一人の方が 「癌になって死ぬだけだ、ただそれだけのことだ 、生まれただけでも幸せだよ。」と言っていた そこまで思うのにどれだけの苦しく悲しい時間を 味わったのだろうか、きっと絶望 失望 失意の底に落ちたであろう。 その人は今何を思って生きているのだろうか。 仏教は得とか損とか良い悪いで 判断する事ではなく その起きた事から幸せを見出す事により 苦しみから解脱していく教
私は今日生きました 庭にある花も葉っぱも今日を生きました 私も花も葉っぱも同じ命です 二人は今日も生きました
コンビニの行き方を左と教えても 「私はそっちだとは思わない、右に行く」 と自我を張り何時まで行っても 辿り着かないのと同じように お釈迦様が説かれた教えを 素直に聞く心がなければ 理解することも信じることさえも出来ず 自ら茨の道を歩む事になり いつまで経っても救われません。 先ずは何事も信じる事から始まります その信が想像を超えた結果を生むのです。
雨は地球にある汚いものを流し 浄化させる作用があるという 雨降る日は山々を見ながら 物思いにふける すると いつの間にか私の心は浄化しているのだ 心も同じだ 私の心の汚いものまで洗い流してくれる そんな雨が私は好きだ。
人の言葉を自分の言葉の様に投稿する人も いますがその人はきっと人に認められず 劣等感に耐えられなかったのではないかと 思うのです。 人は原因がなければ縁を持つことも出来ません 片方だけで何かが起きることなど この世は有り得ないのです。 貴方どうやって生まれたのでしょうか? 両親がいたからです。 今までどうやって命を生き繋ぐ事が 出来たのでしょうか? 様々な命を頂いてきたからです。 貴方が呼吸できるのも この体あってこそであり 酸素のお陰様なのです。
簡単な事を難しくしたり 難しいものを難しく伝えるのは 人間のエゴだ。 難しい事を優しくわかりやすく 噛み砕いて話す事も人様の為。 仏教で言う愛語とはそんな意味も含まれている。 その為には己自身の気付きがなければ 噛み砕いて話す事も わかりやすく伝えることも出来ないのだ。 まずは貴方から実践する事ではないかと 思う今日である。 無理をせず自我を張らずに与える心 自戒を込めて
ラリー・カールトンというギタリストがいます この方はJAZZフュージョンの世界で 当時トップクラスの実力と人気を 誇っていました。(今も人気です。) あるライブ終わりに客から 「貴方のギターは素晴らしい音がする」 と絶賛されます。 するとカールトンは「そうかい?」と ギターをSTANDに置き 「これならどうだ?」 と客の隣に立ったそうです。 ギターというのは数万円から数千万という 金額に幅がありますが高いものは 古いヴィンテージであったり 音がクリ
人の背中は 言葉は語らずとも 人生が写る
同心の中に衣食あり これは道元禅師という高僧のお言葉です。 真の道を歩むならば衣食住は自然と神仏から 頂けるという意味です。 人間は生きていかなければならないので 生活に必要なものを得ようとするのは 当然でありますが あくせくして生活の為だけに 生きてしまいがちです。 人は何の為に生まれたのか? 何故生きているのか? どうして生活しなければならないのか? こうしたとても大切な事がおざなりになり 結果として生きていくのが困難になってきます。 そんな大
以前あるテレビ番組で 和牛とオージー・ビーフを 食べてもらうロケをしていて 色々な方に食べもらっているのを拝見したことがあります。 食べた人は和牛は柔らかく 霜降りの脂が甘く美味しい、 オージー・ビーフは筋張っていて硬い と8割の方は言っていましたが 実はこれ両方ともオージー・ビーフという オチだったのです。 私達は見た目とかブランドとか職業、高い安い 上手い下手等で判断してしまいがちです。 そういった固定観念が人の本当の判断を 鈍らせてしまっている
この悲しみは 私の悲しみではなく 貴方の苦しんでいる姿に悲しみを感じる 手を差し伸べても 握ろうとせず 身勝手に海に溺れている そんな姿を見ては悲しみを感じるんだ
貴方のその悲しみの涙は 本当に大切なものを知った悲しみ だから その涙は美しいんだ 貴方の悲しみは美しいんだよ
人は自分の能力で お金や地位 名声を手に入れると 人とは違う選ばれた凄い人間だと 自分を過信してしまいがちだ。 だがそんな能力より 道端に咲いている誰も見向きもしない花に 感動する心を持っている人の方が 遥かに優れている。 日蓮聖人が仰るように 持っている宝物より身体第一、 身体より心が第一 私はそんな人間でありたい、 そして そんな人達と語らい 共に歩みたい。