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ボタン

 ある夜、折橋は職場から帰宅すると左手の甲におかしなものがあることに気付いた。まるでボタンのような形。痛みも痒みも無く、ボタンの上面には何やら文字が書いてある。

 「いったいいつの間に。なになに、押、す、な?『押すな』と書いてあるのか。そう言われれば押したくなるのが人情だが、どうしたものか」

 病院で医者に見せるべきか等とゆっくり考えていたかったが、明日も早いしその晩は食事を摂り寝ることにした。
 
 
 
 
 翌朝、食パンを口に頬張りながら、当然のように鎮座するボタンを包帯で隠して身支度を整える。

 今日は恒例の会議の日だ。会議と言っても折橋の部署の会議は、ほとんど部長の独演会。部長の口から発せられる野太い声は他の部員が意見するのを許さない。

 いつもなら部長が机を叩く度に萎縮するものだが、今日の部長の声は折橋の耳を通る事すら無かった。

「押すか?押さざるか?」
 
 
 
 
 昼食時、折橋はいつもの社員食堂の列に並ぶ。配膳のオバちゃんからの

「おや、手怪我したのかい?」

という声も耳に入らない。それどころか何定食を食べたのか、はたまた本当に食べたのかどうか定かではない程、折橋の頭はボタンのことで一杯であった。

「押してみたい。いやしかし…」
 
 
 
 
 当然午後の仕事も身が入らず、トイレの個室に籠った。包帯を外しボタンを睨みつける。

「もうおかしくなりそうだ。押してしまえ」

 意を決し震える右手でボタンを押す。

「……。何だ。何も起きないじゃないか」

 特に体調に変化は見られない。また不思議なことに左手の甲にはまるで最初から何も無かったかのようにボタンの姿が無い。拍子抜け半分、安心半分。兎に角スッキリした折橋は、隣の個室の狼狽する野太い声にも気付かず自分の部署へと戻った。
 
 
 
 
 部署ではあるニュースで持ち切りであった。早速自分のパソコンからネットニュースに繋ぐとアナウンサーが喜々として喋っていた。

「この度、新種のウィルスの発見が確認されました。しかし安心して下さい視聴者の皆さん。今の所、人体に害を及ぼすとの報告はされてないようです。ただ1つ、このウィルスに感染すると左手の甲にボタンのような突起物ができるようで、この突起物を押すことによりウィルスが拡散されるという仕組みのようです。また押すことを誘導するような文字も表出されるとの報告もあります。既にワクチンや治療薬も開発に向け急ピッチで……」

 その後コメンテーターが何か話していたが覚えていない。

「手を変え品を変え、ウィルスも大変だなぁ」

 折橋は左手の甲を摩りながらそう呟き、誰が自分の側でボタンを押したのか部員の顔を眺めていた。
 
 
 
 
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