マルグリット・デュラス「大蛇」

性愛については圧倒的に弱者だと思っていて、そのために性愛というテーマを得意とする作家に対しては、「自慢すんなよ!」という思いから、自分で勝手に距離を置いていた。例えば吉行淳之介で、文学者でイケメンぽい扱いは、耐え難かった。したがって私は今でも安岡章太郎派である。

大人になると、性愛の欠乏から性愛を描くというメカニズムもあることを理解した。なので中上健次がいくら性愛を描いたとしても、中上さんだから、と納得できた。若かりし頃の、外見と性愛の可能性が無媒介に連関していると思っていた頃の妄念である。

デュラスに関して言えば、すでに私の学生時代には名声を確立していた。仏文で、デュラスを読む、は理知派にしても、古典派にしても、娯楽派にしても、印籠のように否定しづらい雰囲気を出していた。これがボリス・ヴィアンであれば、理知派の冷笑を受けるのがオチだったし、ポール・ニザンであれば、古典派の憫笑を誘ったものである。

しかしながら、学部生のそうした粋がりは、いずれ大したものではなくなった。

フランス文学において、その種のスノビズムは、90年代後半には明確にあった。「一周まわって」バルザック、敢えてのエミール・ゾラ、わかっているふりをしたル・クレジオ、背伸びしてルネ・シャール、正直なところさほど私は読めてないのだが、とにかく仏文における作家の記号性の強さは群を抜いていた。

サガンやコレットとは違いデュラスというと泣く子も黙った。そう考えるとフランス文学における女性作家の地位は、サンド、ボーヴォワール、サロート…意外にも抑制されたものなのではないかとも思われた。

『フランス短編傑作選』に所収されている「大蛇」は、『ラ・マン』で著名な性愛的テーマの一編で、13歳の少女の性愛の目覚めに至るまでの心理的なドラマを描いた作品である。

寄宿舎に日曜日も預けられたデュラスは、動物園に75歳まで処女だった老婆と一緒に、大蛇が若鶏を丸呑みして穏やかに寝付くシーンを見に行き、その後に老婆とお茶をして部屋に呼ばれ、老婆が買った綺麗な下着を纏った崩れた身体を見せられる、というルーティンを2年間こなしていた。

大蛇が若鶏を飲み込むという生理的な残酷さと、残酷さと直面しないままによだった老婆の身体を交互に見ながら、デュラスは性愛の自己統御に目覚める。大蛇のイマージュと老婆の身体のイマージュが交互に映されることで、自然に対する素直さと、拒否による罰という認識を得、自分はどちらになるのかと考え、娼婦たちに慰めと共感を持つようになる。

男がしたり顔で、女の性愛への自覚は男の視線によって無理矢理に開かれるのが現状である、などというと、その価値意識自体を肯定しているように受け取られるが、そういうわけではない。現状そういう実態が強いと事実を叙述しているつもりである。現状でそうなのだから1928年というこの小説の舞台となる時代においてはいかばかりだったか、推測できよう。

そうした中で、性愛の自覚にいかに至ったかを見事なイマージュを持って描き尽くしたデュラスはやはり稀有な作家であろう。

ちなみに私の性の目覚めは、桑田佳祐氏の楽曲「悲しみのプリズナー」を聴いていた時に唐突に訪れた。私は慌てたが、この現象が何なのかを、何となくは理解していたような気がする。それまでは、異性を好きになるという気持ちの向こうに、何が待っているのか分からなかった。だから、告白して、振られてばかりであったけれども、付き合ったとして、何がゴールなのかはわかっていなかったはずである。「悲しみのプリズナー」経験以降は、そのこちらと向こうが、ある程度繋がっていくわけだが、これらは全て秘匿的に(と自分は思っているのだが、全部バレていたのだろう)行われた。

私が性愛をめぐる革新的施策にイマイチのれないのは、性愛を客観的に直視して語りうる人が大人に少ないからであろう。キレイゴトに全振りした大人か、秘匿的におそるおそる語る大人か、ぶっちゃけた大人か。どうもこの三つの語りのパターンしかない社会の中で、性愛を客観的に語ることができるのか、疑問に思うからである。

私自身も性愛を直視できるのかについては疑問である。直視するには、コンプレックスや被害の経験が強くあるからだ。

ただ、デュラスの「大蛇」を読んで、性愛の直視がどのように描かれるのが望ましいか、についての示唆を得られた。そんな気づきのある短編である。

それにしても、周りの大人は、私が休憩時間に読書をしているのをみて、何とも勉強熱心な人だと思っているっぽい。あるいは、何と呑気なやつであるかと思っているのかもしれない。

しかし、描いていることは、性愛がどうこうという仕事中に相応しくないことである。

悪夢の中で醒めたままいるためには、こんなアジールでも設定しなければやりきれない。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?