恋愛に興味ないのかと思ってた・大人と子ども・信頼の低下 ~村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』23-24~

その人のことが好きなのに、私は「〇〇くんは、そういうことに興味ないのかと思ってた」と言われることがよくあった。もちろん、上手に振るための方便だったのかもしれないが、最近では本当にそうなのかもしれない、と思うようになった。

気づくのが遅すぎたかもしれない。

なので、私は「〇〇くんは、そういうことに興味ないのかと思ってた」という発言が出ないように、言葉で出来るだけ伝えるようにするようになったし、「そういうことに興味ない」根拠として身なりの問題もあるだろうと思って、それなりに服装に関心を持つようにしてきた。

相手を褒めることは未だに得意ではないが、褒められたいポイントを探すのは好きだ。そして、そのポイントを掴んだと思えたときには、とても気分がいい。

ただ、この気質を相手も持っている場合、「おぬし・・・同類だな」とお互いににらみ合うこともある。

嬉しいというのはたぶん共感性のことだと思うが、相手が喜んでいるときは私も喜ばしいし、相手が悲しんでいるときには、私も悲しい。

ただ、不安症の私としては、相手が悲しいのではないかということを先回りしてあぶりだそうとしたあげく、気持ちを逆なでしてしまい、火のないところに火をつけることも多かった。

今、オッサンになって、自分の子どもではない子どもたちと接するときに戸惑うこともある。

私は普段、妻が勝手に買って来た夢の国のネズミの意匠が織り込まれた服を普段着で着ていることが多く、48のしおれたオッサンが唯々諾々とそんなものを着ていたら、やっぱり警戒するのが重要と思うのだが、オッサンとミッキーの組み合わせのちぐはぐさに対して、警戒しないことに不安になるのだ。

警戒されすぎるのも考えものだが、子どもと大人の関係が、現代ではたいへん作りづらくなっているようにも思う。

私の父は、他人の子どもでも平気で「うるさいぞ!」という人だった。一緒にいて辟易することも多かった。今も妹の子どもを叱って、泣かせることもある。

第三者である大人が子どもを叱る、ということに対するおそれがあった。しかし、最近では、それがなかなかしづらい。もちろん、私の父のように言ったところで、「うわ強風が吹いた隠れなきゃ」くらいの気持ちでしかなく、効かないだろう。では、こんこんと話せば済むのかというと、第三者の大人の発言がノイズとしてしかとらえられていないのではないか、と思うような対応もあるのだ。

「第三者の大人」という重しが、大変に弱くなっているのが、現代社会であるように思った。

本がないので、23~24章はざっくり済ます。

「僕」は約束を反故にしてしまったユキに事情を話し、理解してもらったあと、ユキの父親である才能はあったけれども徐々にそれが枯渇していった作家の牧村拓(まきむら・ひらく)の家に行き、色々と話すことになった。

以上。

オバサンと男児、オッサンと女児。この組み合わせを令和でやろうとすると、難しい。『ダンス・ダンス・ダンス』のユキと「僕」だって、令和ならどうその組み合わせが見えるかを考えると、なんとも言い難い。

私たちの側の視線が変わってきたこともあるし、その視線の変化をもたらしたものは「第三者の大人」が子どもに対して被害-加害の関係でしかとらえられなくなってきたからというのもあるのではないか。

それは今そうなったというのではなく、私らオッサンの世代からすでにそうなりつつあったということでもある。

「第三者の大人」が子どもを加害することは、歴史を通じてずっとあったことであるし、なんなら昔の方がもっと子どもをモノとして扱っていただろう。しかしなぜ、今になって「第三者の大人」の加害可能性と「第三者の大人」が社会を代弁していたはずの権威が混同されて、説得力をなくしてしまったのだろう。

大人への信頼の喪失ということあるだろうが、家庭の密室性が高まったともいえないだろうか。いや、なんかおかしいな。

まあ、叱りといいながら、感情を爆発させて自分だけ気持ちよくなっている「第三者の大人」も多いので、仕方ないか。ウチの父もそんなものだったのかもしれないな。

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