辻まことのエッセイ 〜Recycle articles〜

「辻まこと」が生きていたら、案外、電子書籍で万巻を持ち歩ける事態を喜んだかもしれない。

ところで、「辻まこと」という人物を知っている人も少なくなってしまったのではないだろうか。なので、簡単に生まれを紹介しておくことにしよう。人となりの詳細については、wikipediaも便利だが、池内紀氏の『見知らぬオトカム』(みすず書房)をお勧めしておきたい。ちなみに「オトカム」とは、「まこと」をローマ字で逆さに読むと出てくる読み方だ。

辻まこととは誰だろうか。

父親は辻潤。これもまた知る人ぞ知るという人物だが、昭和戦前期にダダイストとして名を馳せた人物だ。母親は伊藤野枝。日本近代史に詳しい人ならご存知だろうが、関東大震災の際に、大杉栄や甥と共に憲兵隊に虐殺された女性運動家である。「辻まこと」は、この辻潤と伊藤野枝の長男として生まれた人物である。

この生まれを見て、文化人二世で何不自由なかった人だ、と考えるのは軽率である。母と幼少期に離別し、奔放な父に様々に翻弄されながらも、自分の好きなことをやりながら人生をまっとうしたのだから。

辻まことは、純粋な作家ではなかった。色々な場所で活躍したが、自分の専門領域にはこだわらなかった。エッセイにおいては、紀行文ジャンルが多いように思われるが、文体は無手勝流で、デッサンのような未完成の調子が特徴だった。完璧な構成を持つ内容よりも、どこが始まりでどこが終わりなのかわからない「日常」のような内容を持つ文章を書いた。

柴野邦彦氏が編集し、未知谷から刊行されているアンソロジーが、最初に手に取るものとしては優れている。順番に読んで行く必要はどこにもない。その日の気分で、タイトルを選べばいい。コンピレーションアルバムのようなアンソロジーだ。



『山中暦日』と題されたアンソロジーの中に、「白い散歩」というエッセイがある。人のいない雪山でスキーをしながら、ふと動きをとめ、あたりを見回した瞬間の感慨が書かれている。

音のない動きの感じられない、しかし静かに生命の実感がしのび寄るこの世界の次元に立ち止まると、自分がキラキラと砕けて四囲の世界の微塵となり、また世界が自分のうちに収斂されてくる透明な現実感を持つ。

雑踏にいると、どうしても、自分と他人を意識し、区別しながら生きて行かなければならない。大変にわずらわしいものである。そういうときは、本を読み、自分を書籍の世界に没頭させ、自分を忘れる。ただ、忘れるだけでは、物足りない。そういったとき、辻まことの文章を眺めると、自分が自然の中に溶け込んでしまえる場所を探したくなる。

私は疲れるのがキライなので、登山はやれない。登ってもいわゆる低い山である。奈良三山くらいの小山がちょうどいい。

小林泰彦氏の『日本百低山』(文春文庫)という書籍が、バイブルである。ただ、ある程度の装備はいる。だから、そういうとき私は渓谷を歩く。渓谷は起伏には富んでいるが、上り坂が長くないからである。

山梨と埼玉の県境近くにある西沢渓谷がお気に入りだ。午前中に西沢渓谷を歩き、日中に「ほったからし温泉」につかり、帰りに勝沼のワイナリーでワインを調達し、家に帰ってそれを少ないつまみと共に楽しむ。

渓谷の水のせせらぎと心地よい疲れがマッチした瞬間に、辻まことのいう「透明な現実感」に近いものを私も体験できる。



辻まことのエッセイは、そのような慰安的側面の裏側に、禁欲的で突き放すような厳しさを併せ持っている。

安易な同意を許さないような書き方のものも多い。

人間というものの存在を徹底的に忌避しつつも、人間というものの俗悪さを無限に許しつづけている、そんな矛盾を感じる。

社会の中に物理的には存在しながらも、いつも心理的には旅をしているような、そんなあてどなさを感じるのだ。

辻まことを読むという経験は、したがって、旅の非日常性の楽しみを味わえるとともに、旅が日常化したときの不安や居心地の悪さをも含んでいる。

その社会との絶妙な距離が、《文明批評家としての辻まこと》というもう一つの顔を生み出した。『ひとり歩けば』と題されたアンソロジーの一編に「わが未開の心」というエッセイがある。

私はあるとき、人気のない山峡の道にたたずんで西陽のさす秋の山を、いつまでもいつまでも、ただじっと視力を凝らして観ている気の狂った娘を見たことがある。
 その姿勢には私を感動させる美しい緊張が漲っていた。そして私は自分の感動を通して一つの判断を発見することができた。
 私は判った。彼女は山を産もうとしていたのだ。もし山を産めたなら彼女は正気に戻るのだ。ヤ・マ、たったひとことでいい、彼女が視野のうちに形式を意識して客体の名を呼ぶならば、世界ははじまるだろう、生命は時空のうちに構築されるのだ。私の未開の心は彼女の姿勢に、ポツリ、ポツリと世界が積み重ねてきた人類の長い歴史を直感したのだ。

表現として不適切な部分もある。ポストコロニアル文芸批評を通過したあとでは、ややナイーブな用語の選択もある。

けれども、生きることに真摯であることの尊さをプリンシプルとしていた辻まことに、私は一つの自立した個人の姿を見る。

辻まことのエッセイを読み返すたびに、こうではなかった人生を思いなし、どこかへふらふらと歩き出したくなる。

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