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今さら・半分だけ・1985

49歳にして、初めて、『ビルマの竪琴』を「半分」読んだ。

仕事ばかりの日々がなせるわざだろう。

ボロボロになった僕の実家にある本を入れたダンボール箱を運び出している際、紙の縁が灼けて黒ずんでいる一冊の『ビルマの竪琴』を見つけたからだった。

「新潮文庫〔草〕」とある。

ずいぶん古い文庫本で、残念ながら新刊でも、古書店でもなく、図書館のリサイクル本の一つだった。

ボロボロな実家からボロボロな本が出て来たので、これは運命だと思い、食後にパラパラとめくり出したが、滅法面白い。

終戦直後に、子ども向け雑誌に連載された『ビルマの竪琴』。

子ども向け?

本当か。その原本を見てはいないが、子どもが読む内容にしては難解である。もし、こうした物語をかつての子どもたちが本当の意味で読めていたのだとすれば・・・と、思考が逸れそうになるのを抑え、先を読んだ。



「ビルマ」(現在のミャンマーだがカッコつきで以後「ビルマ」と表記する)の戦線で、退却に退却を重ねて、「シャム」(今のタイ国)へと抜けようとしている小隊は、合唱を趣味としていた。

いつ戦闘で死ぬかわからないので、とにかく生きているうちに出来る限り歌をマスターしようと小隊は練習を重ねた。

その中に、楽器演奏の才能がある「水島」という男がいた。

彼の演奏は、味方のみならず、原住民や敵の心すら掴んでしまう。

退却中、「ビルマ」と「シャム」の国境付近で、原住民の歓待を受け、いい気持ちになって歌っていると、いつしか住民はいなくなり、抱囲されていることに気づく。もはやこれまでと、合唱を続けていると、どこからともなく英語で、合唱が応答される。

よく見ると、それはイギリス兵でした。
かれらはいくつも塊になって合唱しています。「はにゅうの宿」も「庭の千草」も、日本人はこれがむかしからの日本の歌だと思っていますが、もともとはイギリスの古い歌の節なのです。ことに「はにゅうの宿」はイギリス人が自慢をするかれらの家庭の楽しみをうたったもので、すべてのイギリス人は、これをきくと、自分の幼かった頃のこと、故郷のことを思うのです。それが、こんなビルマの山の中で、危険きわまりないと思っていた敵を包囲していたときに、その敵がしきりにうたっているのをきいたのですから、何ともいえない異様な感動をうけたのです。
こうなるともう敵も味方もありませんでした。戦闘もはじまりませんでした。イギリス兵とわれわれとは、いつのまにか一しょになって合唱しました。両方から兵隊が出ていって、手を握りました。ついには、広場の中央に火をたいて、それをかこんで、われらの隊長の指揮で一しょにこれらの曲をうたいました。

すでに戦争は終わっていて、捕虜になる。

森の中には降伏を肯んぜない部隊がたくさんあり、水島にその演奏の才で、降伏を使嗾して欲しいという要請があり、隊長も水島も、それを承諾する。

ところが、いつまでも帰ってこない水島。隊長は後悔し、探すが、行方は杳として知れず、伝聞で戦死したという噂もきこえてくる。

ある時、水島によく似た僧侶がいることに隊員も隊長も気づき、そのふるまいや演奏の癖は、水島に違いないという確信を深めて行くも、その僧侶は、それらの確信を一蹴するようなふるまいで、隊長を大いに落胆させてしまう。

隊長は、オウムに「おーい、水島、一緒に日本に帰ろう!」という言葉を覚えさせるも、その問いかけには応ぜず、失敗。オウムは捨てられるが、また戻ってくる。

その僧侶は、捕虜たちが合唱すると必ず見学しにきており、隊員たちは、復員するその日まで、水島に合唱でよびかけ、一緒に帰りたいという意志を伝えようとしたのだった。

復員の前日、また現れた僧侶に、「はにゅうの宿」を合唱して聞かせ、例のフレーズを覚えさせたオウムもその僧侶の肩にとまり、「おーい、水島、一緒に日本に帰ろう!」とさけんでいる。

僧侶は、皆がよく覚えている楽器の音色を奏でる。僧侶はやはり水島だったのだが、なぜか、一緒に帰ろうとはしない。

それどころか、「仰げば尊し」の一節を奏で、「いまこそわかれめ いざさらば」というニュアンスを伝えるではないか。



1985年。TVの中で、「ビルマの竪琴」の映画の宣伝が盛んに行なわれていたことを思い出した。

「水島ー!」という、物真似も流行した。

何にも判らず、そういうことをしていて、その物真似だけは、「何?サスケ?」という清涼飲料水の広告と並んで、僕達は無駄に喜んでいたものだった。

そうか、こういう話だったのか。

映画も見ず、作者の竹山道雄と松田道雄の区別もつかぬまま、49歳となった自分は、何とも恥ずかしながら、今やっと「ビルマの竪琴」を半分、読み終わったのだった。



水島を残し、部隊は復員する日を迎えた。

その中の古参兵は、水島が帰らず、脱走して僧侶になったことに、心を痛めた。

そこに、馴染みの老婆が来て、いつも、肩に乗せていたオウムと一緒に、隊長に手紙を渡す。

その手紙に書かれていたのは—

この手紙の内容がクライマックスであり、一つの冒険小説のようだ。

そして、同時に、全体が個を狂わせてしまうメカニズムを書いている。



竹山道雄は、歴史上、スターリニズムに対しても、ファシズムに対しても、全体主義ということで批判していた人物である。

水島は、投降しない部隊を説得しにいき、そこで、いわば「メタファーとしての全体主義」の考察を行い、批判した。

この人々のいうのをききながら、私は感じました。—ここにたけりたっている人達は何か妙なものに動かされています。一人一人はあるいは別なことを考えているのかもしれません。しかし、全体となると、それは消えてしまってどこにも出てきません。人々はお互いにあおりたてられた虚勢といったようなものから、後にはひけなくなっているのです。別な態度をとれなくなっているのです。何か一人一人の意志とはかけはなれたものが、全体を決めて動かしています。この頑固なものに対しては、どこからどうとりついて説いていけばいいか、分かりませんでした。

水島が見たもの、感じたものは、たぶん、1985年に僕が本を読んでも映画を観ても、わからなかったに違いない。

阪神のバース、掛布、岡田の3連続ホームランに浮かれて、僕のような小学生や中学生はお祭りの中にいるような高揚感があったから。

あのとき見た青空は、非常に澄んでいた。

「ビルマの竪琴」に胚胎している思想性など、洗い流してしまうがごとくに。

果たして、49歳の青空はどうだろうか。

黄色く濁って見えるのは、酒のせいか、老化のせいか。

わが国は戦争をして、敗けて、くるしんでいます。それはむだな欲をだしたからです。思いあがったあまり、人間としてのもっとも大切なものを忘れたからです。われらが奉じた文明というものが、一面にははなはだ浅薄なものだったからです。

49歳の私には、「水島からの手紙」を肯定し切ることは難しい。

そういうことかもしれないし、そういうことではなかったかもしれない。

なぜこれを1985年にぶつけようと思ったのか。

しかもリメイク。

市川崑監督のわがままを通すだけの余裕が日本にあったということでもあるし、崑監督が、1985年の社会に批評性を込めてこれをぶつけようと思ったことに制作側が乗ったということなのかもしれない。

名作は、やっぱ結構、名作だなと思った。

軽薄なまとめになった。

「君たちはどう〜」がやれるのなら、「ビルマの竪琴」もやってみてもいいのではないか。

疲れ切った。

インパール作戦ほどではないが、社会との戦いに疲れて、ボロボロだ。

子どもは修学旅行に行った。

前日から6時に起きていた。

気がはやりすぎだろ。

楽しそうだ。

こんなに、なにかを楽しみに待つことがなくなった。

晩酌?

それは忘れるために。

何かを楽しみに待ちたいな。

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