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原宿界隈 ~ゆるく本の紹介をする 1~

年末、『新宿・渋谷・原宿 盛り場の歴史散歩地図』(赤岩州五 草思社 2018)という本をめくっていた。

面白い本だな、紹介したいな、と思って、いざ紹介の文章を書いてみようと思って、筆が止まった。

なぜだろう?

簡単に内容を記せば、本書は、昭和初年代から現在までの古地図をたどりながら、新宿・渋谷・原宿地域の変遷を、コラム形式で紹介しようと試みるもの、である。

盛り場が昔どうだったのか知りたい方は、どうぞお読みください!

と、なろう。

いや、そうじゃない。

そういうことじゃないんだと思う。

私がこの本を購入したのは、原宿、穏田、上澁谷といった村落から、渋谷区が、特に原宿地域が、どんなふうに地域形成をしていったのか、ということを知るためだった。

一般的に、家康の関東入城にしたがって、伊賀者に与えられた穏田地域は、旧来より宿駅として用いられていた原宿地域と一緒に発展していった

明治になって、武家屋敷が引き払われると、一部の大名の邸宅以外は荒蕪地になったという。しかし、そこに地域の人々が茶や桑を植え、近郊の農村として活動を再開した

青山練兵場が、今の外苑に出来ると、その周辺であった原宿地域には軍人たちが住み始めた。徐々に、原宿のみならず穏田にも、文客らが住み始めた。これら新住民の多くは、地方から出て来た人々だった。 

例えば、穏田地域に住んでいた乃木大将、あるいは、「穏田行者」とも呼ばれた「明治のラスプーチン」飯野吉三郎なども、穏田に大きな邸宅があったという。

日露戦争の勝利を祝して、1906年に、青山練兵場での博覧会が企画された。そのため、練兵場は代々木に新設された。今のNHKや運動公園、代々木公園のあたり一帯である。原宿駅が、今の宮廷駅付近に出来たのも、その年であった。

しかし、天皇の崩御によって、博覧会は中止となった。代々木練兵場の北側に明治神宮が企画され、青山練兵場を外苑とした都市計画が進行する。大正9年に内苑が出来、翌10年には仮の外苑が出来た

もともと参道は、青山練兵場から伸びて、今の西参道から入る予定だったが、鬼門ということで、急遽、外苑から今の表参道交差点までいって、そこから北西へと伸びて内苑の南東から入る道が表参道となった。

原宿駅も宮廷ホームから今の場所へ移転した。穏田三丁目にあたる場所だったが、駅名はそのまま、使われた

ここである。

穏田と原宿は同格の地域であり、同じくらい古い歴史がある。1970年の区域名変更の時に、穏田か原宿かで一悶着あり、「神宮前」に決着したという経緯もあるのに、この駅移転の時には穏田か原宿か問題は起きなかったか、ということを知りたかったのである。

ピンポイント過ぎた。

当然ながらそんなことは書かれてない。

宮廷ホームは旧原宿地域にあったから、駅名が原宿というのは納得である。

だから移転が穏田地域に決まった時に、穏田駅に名称変更せよとは言いにくかったのかもしれない。

戦前だし、明治神宮に付随する駅だから、そんなことを言い出すのも恐れ多かったのかもしれない。

あるいは人々に練兵場とのセットで認識されている原宿という名称が、代々木練兵場の近くに動いてくるのだから、相性的にまあいいかと思われていたのかもしれない。

本書は、新宿、渋谷、原宿のうち、新宿と渋谷に詳しい。

地図の写真は著作権のことがわからないので載せられない。

特に新宿は、御苑の近隣になった細民窟について書かれていて、興味深かった。今のウィンズがある新宿4丁目付近のことである(pp.24-25)。

また新宿2丁目の地図も面白かった(pp22-23)。

思い出横丁あたりについては、もうちょっと知りたかった。

表参道ができた原宿は、発展を続ける。

震災後に、青山アパートメントが同潤会によって建てられる。穏田商店街(現キャットストリートあたり)と原宿商店街(現とんちゃん通り)が栄える。

戦争では5月24・25日に大空襲を受ける(pp50-51)。

戦後、代々木練兵場に進駐軍のための建物が建てられる。正式には「進駐軍家族住居地区」といい、一般に「ワシントンハイツ」と言われるそれである。

1950年、キディランドがオープン。単なるおもちゃ屋を米兵たちがそう呼んでいて、そう名づけたらしい。

ワシントンハイツの住民に合わせて、街が外国のようになっていった説があるようで、最初私もそう理解していたが、参宮橋側の西参道にも、出入り口があり、こっちにも米兵は買い物に来ることが多かったらしいので、なぜそっちは外国化して行かなかったのかを考えると、ワシントンハイツ影響説はいまいち弱いと思うようになった。

朝霞を返還してもらって、そこにオリンピック選手村をつくるつもりが、1961年に急に代々木を返してもいいと通達があり、全額日本負担で移転先を決めるというのを条件に、代々木は返還され、選手村をそこに作る(pp.108-109)。ちなみに移転先は調布である。

1963年、アパレルのヴァンヂャケットが青山に移転。

この辺りから深夜営業の店が増えていったのではないか。

1964年、オリンピックに合わせて、明治通りの拡張。

現在のコープオリンピアが建造。この敷地は明治の終わりには牧場だったという。

街区のことを考えてテラスなし、大型コインランドリーを設置したり、地下にスーパーマーケットをつけたりと、初めての試みが多かったという。

1965年に町名が神宮前に変更。原宿、穏田は正式に地域名から姿を消す。

1967年ごろから「原宿族」問題が新聞を賑わせる。深夜営業店の摘発が相次ぐ。地域住民は若者に懐疑的。

1970年代前半、マンションメーカーが増加。セントラルアパートの名が響く。

それに合わせて、大手のデベロッパーがビルを建造するブーム。

1974年3月に「世界の一流ブランドを一堂に集めてオープンしたTBS興産のパレフランス」が営業開始。

1977年、新宿ルミネが3月、青山ベルコモンズが6月、三峰ガーゼットスクウェアが11月、原宿サンク12月、青山ラ・ミア12月と、1977年は目白押しの印象が強い。

しかし一方で、「赤字通り」と「陰口をたたかれて」いた。

1978年10月、森ビルがラフォーレ原宿を建てる。スキップフロア方式の独特な設計。地域住民たちと歩調を合わせるため、内容は若者向けではなく、ミッシーが主だった。しかし、売上は思うように伸びず、若者向けに転換。

1980年ごろから竹の子族、ローラー族、フィフティーズのブーム。

インデペンデントなアパレルが増える一方で、竹下通りは芸能人の店増加。

1980年代後半は、族らに代わってバンドブーム。

本書は、この辺りのことについては、オリンピック村のところで終わっている。

オリンピック村は、その後都民の森林公園として使われる計画があったが、NHKが一部土地を奪取したことでその計画は頓挫した、という新聞報道があったが、その真偽はよくわからない。そこではNHKはかなり批判されていた。

一番面白かったのは千駄ヶ谷のところで、村上春樹さんが若かりし時、バーを開いていたビルと住んでいたビルが紹介されて、ある意味で聖地巡礼的に使えるものだと思った。髪の毛を切っていた床屋も紹介されている(pp.118-119)。

この辺の経緯を、もっと学術的に追っているのは、武田尚子氏の『近代東京の地政学 青山・渋谷・表参道の開発と軍用地』(吉川弘文館 2019)だった。





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