木村友祐『幸福な水夫』

最近、少し長いものを書いている。文章量が多いということだけではなく、扱う時代のスパンを広くとっているのだ。私の記憶がある時代以前の経験について、残されたテクストから追体験するように書いている。

古いテクストに囲まれていると、時間を忘れてしまうことがある。別の時間に入り込むからだ。言葉というのは不思議で、その時代に属する言葉の形に囲まれていると、時代をさかのぼったかのような感覚を得る。そうして、一段落して、ふと気づく(現代に戻ってくる)と、周囲に存在する様々な表現に居心地の悪さを感じることもしばしばだ。

木村友祐の『幸福な水夫』を、そんな時間のさなかに読み、ここにもまた別の時間が流れていることに気づき、しばし感じ入った。

本を読んで、考える。シンプルなことだが、このスローな時間の流れが、心地よく感じる。Web画面に濫示されるニュースでは、情報があまりにも多く、処理しきれないまま、世界には、悪意しか存在しないかのように感じられてしまうからだ。AIがチョイスしてくれるその世界はたぶん、私が普段思っている世界の像なのかもしれない。

そうではない、と『幸福な水夫』は、教えてくれる。小説の言葉に、まだ自分が素直になれる、ということを感じ取れた。

青森県の八戸で暮らす「守男」と、その父の「和郎」。そして、守男の弟の「ゆずる」だが、彼は東京で食えない小説家をしており、たまたま猫の「黒助」を連れて帰省しているところ、脳梗塞の後遺症で、取り憑かれたように急かされている和郎の旅行につき合わされる羽目になった。

和郎と守男は同居しているもののソリは悪く、趣味を追求する守男を、和郎は家業に縛り付けようとする。しかし、様々なトラブルで、結局、微妙な距離感の男三人が、下北半島の温泉旅館を目指して旅立つこととなったのである。

中年男と介護が必要な父とのロードムービー。そんな風に言うとたぶん変だが、昨今の物語には、おおよそ不要なキャラばかりで織りなされている物語だ。

誰が、共感するのか。

私が、共感した。

「共感」という作用に対し、いささかの抵抗感を持っているのだけれども、『幸福な水夫』には、素直になれたのである。

なぜだろうか。

中年男の抱える情念を、他者に対する敵意としてではなく、異なる時間の流れに対する渇望=理解として描こうとしているから、ではなかったか。

老年男、中年男が、邪魔者、嫌われ者としてみなされるようになってしばらく経つが、『幸福な水夫』では、和郎のかぶっている帽子に刺しゅうされた「Happy Sailor」という文字の滑稽さともの悲しさと居心地悪さの中に、その主題を結晶化している。

もちろん、本書には、標準語を押し付ける《中央》に対する不信や、地方に危険なものを持ち込んではリスク管理させる《中央》の身勝手さに対する告発がある。

ただ、それを押し戻せばいい、という結論には、いかない。

迂遠な解答なのかもしれないが、地方(=和郎)を理解しようとしない中央(=ゆずる)の無理解こそが問題だ、と自覚して、

「ゆずる」はまずは、身近だが理解することを拒否していた家族に対する理解を進めようとする。他なるものの理解を通じて、《自らの無理解=閉じていたこと》に気づく道筋が示されている。

粗雑な二者択一を迫る様々な価値観に対して、それだけではないよね、と教えてくれる、良い小説だったと思う。

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