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石川淳のことなど

私の若いころ、周りにはジジむさい文学者を愛好する人が多かった。代表は永井荷風や石川淳である。どちらの作家も、嫌いではなかったけれども、そうした老成アピールの友人たちに迎合するのがイヤで、石川淳を遠ざけていた。稲垣足穂もそうだけれど、信奉者の姿が、作家との出会いを妨げる場合がある。

別に石川淳は最初からジジむさい感じではなかっただろう。でも、老成アピの友人たちは、石川の江戸趣味的なものを、酔い良いと勧めてきており、その勢いに辟易していた。私が石川淳を初めて読んだのは「普賢」で、文脈上無頼派よりの認識で、理解していた。けれども、老成アピの友人たちは、戦後に背を向けて懐古的なニュアンスの強い、はたまた耽美的なニュアンスの強い作家像を推しつけてきていた。

俺だって、石川淳は良いと思う。けれども、お前らの言う石川は偏頗なものじゃないか、と言えずにここまで来てしまった。そして、読まずに来てしまった。そんな老成アピの友人たちは、今、ワールドカップの報道をし、スポーツ記者として活躍している。どこが、荷風的なのか、淳的なのか。

ただ、周りを見渡した時、石川淳の作品が棚にあるかというと、ない。見つけたのは、講談社文芸文庫の『白頭吟』、岩波文庫の『森鴎外』だけである。『紫苑物語』や『普賢』、『至福千年』などはどこにいったのか。そういう雑な扱いをしてしまうことが、石川淳に対する俺のスタンスを示している。

石川淳の『森鴎外』は面白い。評論だけれども、至る所に、気持ちの良い断言がある。

「抽齋」と「霞亭」といずれを取るかといえば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味なことはいわないつもりである。この二篇を措いて鴎外にはもっと傑作があると思っているようなひとびとを、私は信用しない。「雁」などは児戯に類する。「山椒大夫」に至っては俗臭芬芬たる駄作である。「百物語」の妙といえども、これを捨てて惜しまない。詩歌翻訳の評判ならば、別席の閑談にゆだねよう。

あの新潮文庫のタイトルになっている「雁」と「山椒大夫」をそんな風に言っちゃうの…?みたいな気風の良さが、対句のリズムでポンポン出てくるところに、石川淳の良さがある。もちろん、そう思うかどうかは、別物だし、実際、なにをこんちくしょう、と思う人もいるかもしれない。

石川に言われるまでもなく、私も「抽齋」が第一傑作だと思う。そういうことを言う人はあまりいなかったが、昨年海人さんがおっしゃっていて、わかってらっしゃる!と思った次第である。

石川淳は、続けて次のように言う。

「抽齋」と「霞亭」と、双方とも結構だとか、選択は読者の趣味に依るとか、漫然とそう答えるかも知れぬひとびとを、わたしはまた信用しない。この二者択一に於て、選ぶ人の文学上のプロフェッション・ド・フォアがあらわれるはずである。では、おまえはどうだときかれるであろう。ただちに答える、「抽齋」第一だと。そして付け加える、それはかならずしも「霞亭」を次位に貶すことではないと。

俺は、「霞亭」を忘れた。求めようと思ったら、破格の値段になっている。インフレ!読書離れ!いい加減にしろよ密林!と思った。全集だと安いが、全集だとなんか保存に適さないというか。図書館というのも、これまた世界のパーツがあるのに、それをむざむざと見逃すようで何かと思う。

ただ、この出だしについて、

鴎外さん、頼まれたからやったし、漱石さん頼まれなかったからやらなかった、それだけのことです

おい!と言う感じのことも言っている。食えないやつ、という評価は、こんなときにしてもいいのかもしれない。

そんな感じで人を食うので、石川淳好きです、という信仰告白って、しずらいよね。と思う次第。

でも、きっと照れ隠しで、鴎外論の中には、それなりの本心があるよね、って思いたい。

石川淳については、また、ちょっと書きたい。

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