江戸川乱歩「日記帳」
以前新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』の中から「二癈人」を取り上げたときに、先日の乱歩に関する話と同じことを書いていた。二度、同じことを書いてしまうのだから、よっぽど堪えた経験だったのだろうと思う。ただ、あれがなければ、ミステリ研とかにそのまま入り直したのだろうか。そう考えると、変な道に行かないよう、正しいことを先輩は言ってくれたのかもしれない。
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で、岩波文庫の『江戸川乱歩作品集Ⅰ』から「日記帳」を読む。短編で、すぐ読める。亡くなった弟の反故の山から、文通の形跡が出てきて、それを暗号的に読み解くと、ある皮肉な悲劇が浮かび上がる、という趣向。
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ここには明治後期から大正時代に流行ったと見られる手紙を送るときの暗号が用いられている。斜めに切手を貼ると、内容如何に関わらず、「Yes」ということらしい。女学生の流行だったのか、よくわからない。
私たちの小学生時代も、色々な相性占いやおまじないが生まれ、消えた。
試したこともあったが、当然叶うはずもない。
その中で五感がとても嫌だったのが「あきすとぜねこ」というやつだ。「まごわやさしい」と同じ、結果の頭文字をとった文字列だけれども、いやに禍々しく聞こえた。これは感覚的なもので「アストラゼネカ」という会社を見たときに、この「あきすとぜねこ」を思い出し、感覚的に身震いした。
この文通時の記号について、作品内で宇野浩二の「ふたりの青木愛三郎」という作品に詳しいとある。それは読んだことなかった。そもそも宇野浩二は「蔵の中」以外は、あんまりちゃんと読んだことがなかったかもしれない。宇野浩二には「屋根裏の法学士」なんていう作品もあるから、乱歩が宇野浩二の作品を嫌いじゃなかったことがわかるのではないか。
宇野よりも乱歩はアクティブな人ではあったけれど。
どうでもいいけど、「あきすとぜねこ」の「あ」はなんだっけ、と思い出せない。「あいしてる」とか、そんなんだったか。「き」は「きらい」で、「す」は「すき」とか、そんな感じだったと思う。そうやってなんとなく推測しても、「ね」だけは思い出せない。
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「日記帳」について、どんな感想があるかというと、テクストというものは記号の配置によって、ある程度自由に解釈しうる余地があるなあ、というものが思い浮かぶ。それは、「D坂の殺人事件」の時に明智小五郎も言っており、都合のいい根拠を並べて、それに基づいて解釈を作ることがある程度までは可能だという姿勢が見える。
「日記帳」だって、弟が仕掛けた壮大な兄への復讐とも取れるんじゃないか。疚しさを自覚させることが「復讐」になるのか、とか色々な反対意見は出せるけれど、とりあえずこことここは、その根拠となります、と述べられそうだ。自分はそうは読まないけれど。
どうでもいいか。
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