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憂鬱の雨が降る

朝目が覚めると体が重たくて、昨日まで留守にしていた憂鬱がちゃっかり心の中に居座っている。どうしたものかと思って外を見ると、雨が降っていた。

雨はじっとりと心を湿らせる。頼んだところで憂鬱は立ち去ってはくれない。雨のせいにしてしまうのは気が引けるが、そういうどんよりした日には、計画していたこともなかなか思い通りにいかないものだ。眠気覚ましに頼んだ抹茶ラテは、こちらの気も知らず余計に熱くて、舌を火傷した。むしゃくしゃしたり、悲しくなったりしながら、濡れたコンクリートの上を歩く。清潔で真っ白なスニーカーに泥が跳ねる。アメリカ人はめったに傘をささない。傘のビニールに雨粒が当たって弾ける、パリパリした新鮮な音の心地良さが、自分だけのもののような気がして少し気分がいい。

したくもなかった昼寝をしてしまった後の、胸に染み込んだ嫌な虚しさ。時間とか人生とか、誰に与えられたわけでもなく、どう消費しようと自由であるはずなのに、有限なものに対する無駄にしてはいけないという人間の焦燥感は、一体どこから来るのだろう。正しい時間の使い方とか、正しい生き方なんてものは、きっと存在しないはずなのに。その不毛な焦燥感に掻き立てられ、何か今日も成し遂げたという証を残そうと躍起になって、こうして日記を書いている。そういう情けない自分に、別の自分がひょっこり現れて、無責任に肩の力を抜けと言う。何かを成し遂げようが成し遂げまいが、誰にでも行き着いた先には死が待っていて、後には何も残らない。死は偉大な平等主義者だから。私たちが残そうと躍起になっている生きた証なんてものはきっと、数千年後の人類に、古代人は全くもって奇妙だと騒がれるような遺物でしかない。

濡れた舗道に信号の光が跳ね返って、闇に散ってゆく。雨に濡れて重たくなった空気のように、確かな質量を保って、憂鬱はまだ穏やかにそこにいる。明日の朝にはいなくなっていますように。祈りながら眠りにつく。

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