蓄音円盤の逆襲

すんどめはコロンビアの古いアナログ・レコード・プレーヤーで、ビバルディからパフュームまでさまざまなLPを聴いている。
そんなある日、たまたま高校生の女の子2名に、レコード・プレイヤーへ針を落として再生するところを見せる機会をもった。
彼女たちが生まれて初めて見る、アナログ・ディスクの再生風景である。
回り始めるパフュームのLP。
眼を輝かしながらそれを見る2人。
そのときである。
片方の女の子が、極めて興味深い発言をした。
「蓄音機って、いくらぐらいするんですか?」
――“蓄音機”。
すんどめは一瞬、居合の抜き打ちを喰らった駕籠の中のお代官様のような気分になったが、二瞬ののちには体勢を立て直し、
「蓄音機って、もしかしてこれのこと?」
と言って、コロンビアのその機械を叩いた。
機械の上では、今まさに黒い円盤が回っている。
「はい」
「あーっ! なるほど!」
すんどめはほとんど感動していた。
「要するに、レコード・プレイヤーって言葉を知らないんだね?」
「??? はい」
「いや、レコード・プレイヤーって言うのもいい加減古いけどね。ほんとにカッコイい人は、ターン・テーブルって言うみたいだよ」
「えっ、そんな言い方あるんですか」
「だから蓄音機でいいよ。間違いではない!」
「は、はあ……」
という次第で、まさか2010年代末期の10代から蓄音機などという言葉を聞くとは思わなかったわけだが、これはもちろん、彼女たちにとって文字通り前世紀の遺物であるところの「レコード・プレイヤー」も「カセット・デッキ」も「オープン・リール」も「インテリ・ヤクザ」も、これまで一度も聞いたことのない正真正銘の死語であって、むしろ「蓄音機」や「赤紙」や「グループ・サウンズ」や「ブリッ子」や「スケバン」や「ケンカ上等」や「変体少女仮名」のほうが、前世紀の遺物然とした前世紀の遺物として、また、死語然とした死語として、まだしもなじみがあるということの証左に他ならない。

この一件は、すんどめを遠くすんどめ自身の高校時代へと、デロリアンのようにいざなった。
ある時、親父と話していた高校生のすんどめは、なんの他意もなく「洋楽」という言葉を使った。
そのとたん親父は眼を丸くし、
「お前の口から洋楽なんて言葉を聞くとは思わなかったよ!」
と絶叫した。
というのも、あの年代の人々にとって洋楽とは、まさにベートーベンでありバッハでありせいぜいがんばってもグレン・ミラーであって、したがって死語だったからだ。
同じように邦楽とは、琴・三味線・尺八などを使った、長唄・小唄・義太夫、まあ最大限奮闘努力してもたかだか浪曲なのだ。
実際、すんどめの高校の「邦楽部」も、琴・三味線の音楽をやっていた。
そもそも、かつて西洋から入ってくるポピュラー音楽は全て「ジャズ」と呼ばれた時代があった(らしい)。
シャンソンもマンボもボサノバもブルースもラグ・タイムも、いっしょくたに「ジャズ」である。
さらに時代が下ると、今度はなんでもかんでも「ロック」と呼ばれるようになる。
サーフィン・ホット・ロッドもエレキ・インストゥルメンタルもロカビリーもソウルもメタルもファンクも、全て「ロック」である。
と、このようにとかく混乱しがちな音楽分類という分野において、洋楽・邦楽という言葉の「復活」は、こうした混乱への反省から行われたことに違いない、とすんどめは見るのだ。
西洋舶来のものをなんでもジャズと呼ぶのはおかしいだろう、ロックと呼ぶのはおかしいだろう、国内のジャンルをなんでも演歌と呼ぶのはおかしいだろう、ニュー・ミュージックと呼ぶのはおかしいだろう、という反省に立ったとき、どうしても機械的・客観的に国内ジャンルと国外ジャンル(せめて西洋ジャンル)とを区別する言い方が欲しくなる。
そのとき復活してくるのが、一度は死語化した洋楽・邦楽という言葉だったのではないだろうか。

このように、時代状況やテクノロジーの変化が、かつての死語に少し別の意味を加えて復活させるということは、しばしばあることだとすんどめは考える。
動画、などというのはその最たる例だろう。
かつて動画という単語は、アニメーションという意味だったのだから、なんとも隔世の感がある。
ことによると、ふとしたきっかけで今後、「蓄音機」とか「活動写真」とか「漫画映画」とか「テレビまんが」とか「総天然色」とか「自由恋愛」とか「ペン画」とか「絵物語」とか「可愛い子ちゃん」とか「ブルー・フィルム」とか「トルコ風呂」とか「活版印刷」とか「ガリ版」とか「アベック」とか「上玉」とか「手ごめ」とか「レコード・コンサート」とか「バス・ガール」とか「お大尽」とか「夫婦別れ」とか「接吻」とか「白墨」とか「フィアンセ」とか「賞与」とか「ガチョーン!」とか「失礼しちゃうわ」といった言葉が復活してこないとも限らない。
それも、新しい別の意味を持たされて。
まさかと思う人よ、ゆめ疑うなかれ。
なんとなれば明治初期、日本で最初の女学生らは世間からの羨望と好奇と軽侮のまなざしから、かえって閉鎖的なエリート意識と開き直りとスットボケをいかんなく発揮し、自分たちの中でしか通用しないさまざまの専門用語「てよだわ語」を発明したが、その中には驚くなかれ、「デコる」という動詞が実在したというではないか。
しかも、その「デコる」は決して写真や小物などにデコレーションを施す意味の「デコる」ではなく、自分自身にデコレーションを施す、つまりはお洒落をする、という意味であったそうな。

ということを、すんどめはある友人に告げた。
この友人、マニアックな知識が病的に莫大で、すんどめは人間シンクタンクと呼んでいる。
その人間シンクタンクはすんどめの話を聞くなり、
「ああ、そう言えば軽音楽って言葉もねえ」
人間シンクタンクによると、「軽音楽」という言葉は、もともと主にアメリカのルロイ・アンダーソンらが作編曲していたジャンルを指す言葉なのだという。
すんどめはてっきり、60年代、いやどんなに早くとも50年代以降に、エレキ・ギターを使った小編成のバンドをニキビづらの少年らが組んで乱痴気騒ぎをし、暴れに暴れまくるということが日本にも渡来・普及し、ではそういった音楽を何と呼べばよいか、ということでお手軽な音楽=軽音楽と呼ばれるようになったのだと思っていた。
が、実はそうではなく、ルロイ・アンダーソンらの『タイプ・ライター』や『おどる子ねこ』、『トランぺッターの休日』といった楽曲が、フル・オーケストラなど従来のクラシックの編成を用いつつも、より軽快な、より手軽に聴ける音楽として軽音楽の名で日本に普及したのが、「軽音楽」という日本語の始まりであったと人間シンクタンクは言うのである。
むろん、戦前のことである。
従って戦後、まさに後に何でもかんでもロックと呼ばれることとなるいわゆるエレキ・バンドによる音楽が日本に普及したとき、それを表現するために、かつて戦前に使われた軽音楽なる言葉が、新しい意味を加えられて「復活」したとしても不思議はない、と人間シンクタンクは指摘するのである。
ところが人間シンクタンクという男が破格なのはここからで、
「だから戦前の学校の『軽音部』って、いったいどんなジャンルをやってたのかねえ」
「えっ、そのころから軽音部ってあったのかい!?」
「ん? そりゃあ、あったんじゃないの」
軽音楽という言葉が存在した以上、同じ時代に「軽音楽部」・「軽音部」という名の部活動も存在しなかったはずはない、というのが人間シンクタンクの当たり前の感覚なのである。
彼は、
「不思議だよね。調べてみる価値はあるよね。まさか戦前の日本の学生たちが、『軽音部』とか言ってルロイ・アンダーソンやりまくってたとしたら……」
すんどめは腹を抱えて大笑いした。
なんともシュールな光景だ。
当時の10代がフル・オーケストラを学校で編成し、しかし管弦楽部や吹奏楽部とは一線を画す独自の見解で、バッハやモーツァルトやベートーベンには見向きもせず、
「ルロイ・アンダーソン、超ヤバくない?」
「やっぱルロイでしょ。バッハとかまじカビ臭いわ」
軽やかに『タイプ・ライター』や『おどる子ねこ』や『トランぺッターの休日』ばかりを演奏しまくっていたのだとしたら、なんて粋でいなせでお洒落な部活だろう。
さぞかしそれは、ナウでヤングなモガとモボがモーレツにシビレる大正浪漫のイカシたレビューだったに違いない。

参考:NHK教育テレビ『ニッポン戦後サブカルチャー史』

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