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学校に行かないという選択。「それは、私が自分で選んだものだから。」

夏休みを勝手に延長していた我が家だが、少しづつ幼稚園にも行き始めている。

9月は末娘の誕生月である。

幼稚園では、何のリハーサルもない、練習もない誕生会があり、子どもたちは、自分の好きなものになってスタッフと劇のような冒険のようなストーリーを楽しむというものになっている。

自分の子どもが誕生月になると、保護者が子どもたちを紹介する誕生ボードなるものを作ったりという作業などが、ちらほらある。

私は、行事は日常の延長上にあってこそ価値があり、日々の生活を経ることなく、いきなり誕生会だけに参加しても意味がないと思っている。

誕生会を迎えて「大きくなったな」と感慨を持てるのは、日常を積み重ねた上でのことである。

ということで、来たる誕生会に向けて、幼稚園での日常を積み重ねるべく、ぼちぼちと幼稚園に行っている。

すると、いろいろ話しかけられることが増える。誕生ボードのことであったり、移動のバスの中で何かを尋ねられることもある。

感染症が完全に収まったわけではないが、少しづつ、皆が日常のコミュニケーションを求め始めている空気を感じる。

話しかけられて、相手の話を聴きながら、私の脳内は人間観察に忙しい。

相手を見定めようとか、そんな偉そうなことを考えているわけではなく、単純に「どんな思考パターンで、どんなバックボーンを持っているのだろう?」と言葉の使い方やそのニュアンスから冷静に観察する癖がついているのである。

末娘とお弁当を食べていると、一人のお母さんが、私たちの方に向かって歩いてきた。「あ、私に用事があるんだな」と瞬時に感じる。

誕生会に向けての準備などの話の終わりに、「実は、3年くらい前に長男くんと遊んだことがあったんです。」という話が飛び出した。

丁度、その頃は、長男は4年生、二男が年長組で、二男が、「今日は、幼稚園に行かなくてもいいかな」と度々言っていた時期だろうか。長男だけが幼稚園通い、虫捕りに行っていたことがあった。

長男はそのころ、虫捕り以外に「ドラゴン」の絵を描くのに凝っていた。

〈目〉〈羽根〉〈身体の形〉〈爪〉〈必殺技〉などの項目別に10個くらいのパーツを好きな番号で選んでいくと、オリジナルのドラゴンが出来る、といったゲームのような、お絵描きをしていて、幼稚園の小さな子やそのお母さんに番号を選んでもらっては、ドラゴンの絵を描き、出来上がった絵を渡していたようだった。

面白いからやりたい、と子どもからも大人からも声を掛けられて忙しいんだ、と長男が言っていたことを思い出した。

話しかけてくれたお母さんは、その時に長男にドラゴンの絵を描いてもらった、ということだった。

「その時に、その発想がスゴイと思って、〈スゴイね!〉と言ったら、〈え?何言ってるの?〉みたいな顔をされて、『別に、すごくないよ。これは、あなたが自分で選んで作ったドラゴンだよ。』って言われたんです。なんか、凄いなぁって圧倒されちゃったんですよね。」

まぁまぁ、それはそれは。
いつもと変わらず生意気な様子でスミマセン。

「一緒に遊んでもらっていたんだね、ありがとう。」と言って、「なんだか偉そうでねぇ。最近はますます偉そうなの。」と私は笑った。

我が家の子どもたちは、基本的に他者の評価というものを気にしていない。

だから「凄いね」と言われても、ピンと来ないのだと思う。自分にとっては、「自分で選んだ好きなことをしているだけ」だからなのだろう。誰かに「凄い」と褒められる為に何かを選択したり、行動したりしていない。

楽しいから、好きだから、やっているだけ。

もう少し成長してくると、誰かの為に、喜んでもらいたい、楽しんでもらいたい、ということが原動力になることも時と場合によってあるし、何処かで〈自分の存在が誰かの役に立っていると感じること〉は、生きる上で自分を支えてくれることもあるだろう。

でも、最初に〈誰かの為に〉があると、評価や感謝やその他諸々を知らないうちに求めてしまうことも多い気がする。

どんな選択も、「私が自分で、選んだものだよ」と受け入れる底力を持っていたい。

誰かの評価の中で生きるのではなく、感謝を求めるのではなく、「私が、この日常を選んだのだから。」と、胸を張って、明日という日をまた選び取っていこう。

長男のことを話してくれたお母さんの話を聴きながらそんなことを考え、明日は子どもたちと今年は最後になるであろう海遊びに出掛けようと思っている。








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