漫画みたいな毎日。「己れを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。」後編。
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漫画みたいな毎日。「己れを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。」後編。

やなぎだ けいこ

私たち家族と隣人との歴史はこちらの記事。


冷戦のような状況が続いていた、昨年のある日のこと。

長男がトランペットから帰宅し、すぐに口を開いた。

「今日の行き帰りのバスでお隣の〇〇さんと一緒だったんだよ。」

「へ~そうだったんだ。お出かけだったのかね。」

「帰りのバスを降りて、挨拶したら、珍しく話しかけてきてさ~。」

「え?なんて?」

〈あんた、バスの中で口笛吹いてたでしょ!バスの中で口笛吹いたらダメでしょ!前の人、びっくりしてたでしょ!あんたのお父さんとお母さんは、そんなことも教えてくれないの?!〉って。」

私は、怒りで血の気が引き、手が雪を素手で触れた時の様に冷たくなっていくのを感じた。

しかし、努めて冷静に聞き返した。

「それで、なんて応えたの?」

「あ~、〈教えていただいてありがとうございま~す♪〉って言っといた。」

・・・・拍子抜けである。

長男の回答とその後のやりとり次第では、即刻、お隣に乗り込もうと、頭の中で、次々に言葉の弾を込めていたのだから。

「だって、話してもわからない相手に、時間を使いたくないじゃん。無駄だよ。」

物事は、勝ち負けではない。

しかし、長男の圧勝だと思った。

顔には出さないようにしていたが、私は、心の中でガッツポーズをしていた。よっしゃ!!!!!と。

「そしたら、なんて言ってた?」

「不機嫌そうに『いいえ~』って。」

あちらも、予想外の回答だったのだろう。

6年前は、庭に入ったことを疑われ、「監視カメラでもつければ本当のことがわかると言ってやりたい!」と隣人の理不尽さに怒りを隠さなかった長男。

2年程前には、自分の家の倉庫の上に乗って遊んでいたら、隣人に「危ない」と注意され、「危なくなんかない。(危ないかどうか自分でわかっているの意。)」と返したところ、「ウルサイ!」と言われ、「危ないと心配してるわけじゃないなら、最初からウルサイと言えばいいじゃないか。」と相手を閉口させたこともあった。

溝は更に深まる・・・。
ま、もともと、溝しかなかったのだが。


そんな尖った長男だったのだが、(今も尖っているが・・・)いつの間にか、こんな風に対応できるようになったのか・・・・と驚いた。

私より大人の対応だ。

私にしてみれば、人のうちの子をアンタ呼ばわりした上に、「そんなことも親に教えてもらってないの」という発言は、私の怒りスイッチ作動には十分過ぎる位だった。

「そんなに大きな音で口笛吹いてたの?前の人、驚いてたの?」と尋ねたら、「これくらい。マスクもしてるから、もっと小さく聞こえるかもね。目前の人?気がついてもなさそうだったけど。」と、長男が吹いた口笛は、囁き声くらいもものだった。

ガラガラに空いているバスの中で、マスクをして小さな音で口笛くことは、そんなにダメな事ですか?

「自分の口笛よりも、行きのバスで〇〇さんが他の人とお喋りしてる声のが大きくて、周りの人が見てたけどね。」

注意すること、されることの問題ではない。
迷惑な行為への注意の仕方は他にもあり得るということだ。

明らかに、我が家に対する敵意しか感じない。
しかし、私は、長男の対応を聞いて、心を落ち着けることができた。
これで、私が怒鳴り込んだりしたら、長男の対応を無にすることになると思った。

そして、また考えた。

〈近隣との友好の為〉に、庭の一部を畑として貸しているが、ちっとも友好的になどなっていない。むしろ、悪くなっているのでは?このまま貸し続ける意味があるのだろうか?

今までも、何度も隣人の対応によって不快な感覚を味わってきた。その都度、大家さんにも現状を把握しておいていただいた方が良いと思い、お伝えしていた。

大家さんにしてみれば、隣人に自分のお母さんがお世話になったこともあり、無下に出来ない。その立場もわかっていた。しかし、何かあったときに、急に話すより、少しづつ伝えて置く方が良いと私と夫は判断していた。

大家さんに、今回の事を報告し、「畑を貸すのを止めたい」とお願いするつもりだった。しかし、一方で本当にそれで解決するのかな?と思っている自分もいた。

相手が不快なことする。だから、相手にも不快なことをする。「やられたら、やりかえす。」で、何か変わるのか?と。

相手の事を考える、というよりも、相手のバックボーンを想像する。

あらゆる発言に至るまでの、相手の育ちを。
私たちに否があるとしたら、何に対して、苛立ちを覚えているのだろう。

畑を取り上げたら、隣人が自暴自棄になり、子どもたちにもっと理不尽さをぶつけるかもしれない。大袈裟な心配かもしれないが、もしかしたら、もっと危険なことに発展することも、無いとは言えない。そのように隣人の行動に対する様々な心配もあったが、何より、今後、畑を貸さないとなったら、私は、心地よいのか?と考えた。

答えは、「否」だった。

誰かが、曲がりなりにも大事にして、こだわってるものを取り上げても、きっと面白くない。自分で、自分が嫌になるようなことをしたくない。

大家さんには、「現状報告」として、今回のことを伝えた。

大家さんはやはり、「畑の範囲を越えて何かしている、とかであれば注意喚起できるけれど、その他のことに介入するのは正直難しいです。でも、気持ちよく生活できるはずなのに、申し訳なく思います。本来なら、借り主の土地なのですから・・・。」と言い、「時間はかかるかもしれないけれど、隣人と共通の知り合いができたので、ちょっと様子をさらりと聞いてみます。」と言ってくれた。

結果から言うと、何も変わっていない。

私たちは、隣人と顔を合わせれば、挨拶をする。
隣人は何と言ってるかわからないほどの小声で嫌々ながら挨拶を返す。

相変わらず私たちに敵意にも近い不快感を抱いているようであり、今年も庭の一部を畑として自分の物の様に使うのだろう。

そういうこともあるのだ。

すぐに結果を出すことが、最善でないかもしれないと感じている。

子どもたちの目にも、理不尽に映るであろうし、不快な体験ではあると思う。親として、大人として、子どもたちが育つ過程で、理不尽さを多くは経験しなくてもいいのではないかとも思ってはいる。

しかし、その反面、私も、子どもたちも、あらゆる出来事、理不尽に見える事からも、感じ、学んでいる。

むしろ、自分を振り返ると、理不尽な事柄から、学ぶことは多いのかもしれない。(もちろん、その時はものすごく嫌だけど。)

何でもすぐに解決することばかりでない。

世の中には、相容れない事、人、が在る。

時にはそこから自分で身を守る必要がある。

人の数だけ、その「育ち」があり、その生活に影響していること。

子どもたちはあらゆる状況から、時間をかけ、対応する力を獲得し、自分で考え、対応し、必要があれば、その場から逃れ、自分を守る力を身に着けていく。

いつだって子どもたちから学ばせてもらっている。

世の中は、白と黒だけではない。かといって、全部がグレーもない。

もっと、いろいろな色があったらいいなと思う。

結果だけ考えたら、何も変わっていないように思える今回の出来事。

でも、自分の中で、何かが確実に動いた出来事。

「己を愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。」

ちなみに、私は、何の宗教も信仰していない。


〈追記〉

この記事を最初に書いたのは昨年の3月だった。
自分の中で怒りモードに任せて書き、下書きに入れたままになっていた。
そのまま公開するには、自分の気持ちがあまりにも沸騰した状態であり、
言葉の弾丸があちこちに転がっていたので、寝かせてみることにしたのだった。

この記事の出来事から、気がつけば、1年以上が過ぎた。

隣人との関係性に特に変化はない。

今年も隣人は、当然の様に、我が家が借りている敷地の畑の一部を使い、植え付けの準備をしている。

我が家は、使えるスペースを耕し、今年も子どもたちの好きな薩摩芋を育てようと夫が主になって準備を進めてくれている。

先日、家族で、畑を耕し、地下茎の雑草の根を取り除き、畝を作り、マルチを掛け終えた。

そして、ふと、目を上げると、隣人が使っている畑が目に入った。

1.5×2メートルほどのスペースをふたつ、長い畝がひとつ。

それを見たときに、静かにこんな気持が浮かび上がった。

「この小さなスペースが、隣人の生活のハリや心の支えになっているのであれば、もうそれでいいんじゃないか。それを取り上げることに、なんの意味もない。」

私が畑のそのスペースを、本当の意味で手放した瞬間だった。

大事なのは、子どもたちや日々の暮らしに害が及ばないこと。

子どもの育ちに害が及ばない限りは、私は公には、平和主義・天秤座の野生のカバとして生きていくのだ。








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やなぎだ けいこ
東京生まれ東京育ち。障害児施設・公立保育園に10年勤務後、神奈川県逗子市にて玄米おむすび専門店を立ち上げる。家族それぞれが「育つこと」を考え2011年に札幌市に移住。山にほど近い環境で、鍼灸師の夫と学校に行かない選択をしている三人の子どもたちとの「漫画みたいな毎日」。