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漫画みたいな毎日。「脇役という立場は、贅沢だ。」

ドラマでも、映画でも、演劇でも、主役をさらに輝かせる存在、それは、所謂、〈脇役〉と言われる存在ではないだろうか。

脇役、というと、なかなか良いイメージを持ちにくいと感じる方も多いのかもしれないが、私は、脇役なくして主役が輝くことは出来ないのではないかと思っている。


半年程前だろうか、子どもたちと図書館に行った時のこと。ティーンズの書籍コーナーというものが設置されており、14歳、15歳位を対象年齢とした科学や政治、心理学の本がたくさん並んでいる。その中で見つけたのがこちらの本。

この〈15歳の寺子屋シリーズ〉は、分量も多すぎず、子どもたちにも、とても読みやすいようだ。長男は、この本をとても気に入っている。彼なら、ゴリラの家にもホームステイ出来そうだ。

私も一気に読んでしまった。何度も読み返したくなり、図書館で借りた後に、購入した。

子どもが産まれてから、日々感じていたことが、ゴリラの家にホームステイしたという元・京大学総長・山極壽一さんのこちらの本にも書かれていると感じ、何度も読み返した。
 
 この本に書かれている、ゴリラの社会から学ぶ大人の在り方、男性女性・家族の役割や、機能については、この型が全てではないと思うが、自然の中で人が何を学ぶのか、何故、自然がなくては生きられないと感じるかなど、共感する部分も多くある。

最近は「〇〇ちゃんのパパ」「△△くんのママ」と呼ばれるのを嫌がるお父さん、お母さんも多いと聞きます。ぼくも最初のころは、人生の主役から脇役に降ろされたようで、一抹のさびしさを感じました。でも、今では、この呼び方はとても奥深いものだと思っています。「自分のことだけを考える人生は、もう終わりですよ。これからは、子どものことを第一に考える人生ですよ」という気づきを与えられているともいえるからです。自分のやりたいことだけを追いかける段階から、次の世代を育てる段階に変わったということなのかもしれません。
 一生、ただただ自分がしたいことだけを追求するのは、あまり美しくないのではないでしょうか。自分のことだけを考えて生きるのは、本人にとってもつらいのではないかと思います。子どもたちを守るシルバーバック(群れのオスゴリラ)のように、守るべきものがあったほうが、誰かのために生きるほうが、本当の意味で、人は強く優しくなれるのではないでしょうか。子どもたちが群がるシルバーバックと、上手に子離れする母親ゴリラの姿が、カッコイイ大人になるとは、どういうことなのかを、ぼくに教えてくれたような気がしています。

山極壽一「ゴリラは語る」より。

引用しておいて、こんなことを言うのもなんだが、私は〈〇〇ちゃんのお母さん〉と言われても、まったく気にならない。「はい、そうです。」と思うだけだ。

私は、自分を〈やなぎだけいこ〉だと思っていて、〈〇〇ちゃんのお母さん〉と他の人に認識されていても、その人の認識がそれで便利であれば、構わないと思っているからかもしれない。

さらに、私は、自分のしたいことを追求する人生を美しくないとは思わない。

それも加減というか、追求の仕方が美しいものであるか、そうでないかである気がしている。自分にも、他者にも、誠実に、自分のしたいことを追求していたら、誰かのためになることだってあるだろうと思っているからだ。

ただ、自分以外の他者の存在は、自分を客観視し、社会を客観視し、何を優先し、何を守るべきかを浮き彫りにしてくれる気がしている。

(引用しておいて、異を唱えるばかりで、何だかスミマセン、山極壽一さん・・・。何度も読みかえしておりますので共感する部分も沢山あるのですよ・・・。)


私が、しっくり来たのは、「次の世代を育てる脇役」という部分だ。

自分の人生の主であるのは、いつでも自分である。死ぬまでそれは、変わらないと思っている。

しかし、親としての役割を担った部分に関しては、〈親は、子どもの人生の脇役である〉と私は認識している。

この事に関して、〈これ以上ない、ものすごい役を割り当てられた!〉と思っている。


個人的には、働きながら子育てをしても、専業主婦と言われる暮らし方でも、どちらでもいいでのはないか、と思っている。選択の違いでしかないと思うから。

ただ、一昔前よりは、変わってきているのかもしれないが、まだまだ社会に於いて、母親が子育てしながら働くことなどに、悩む人も多い様な気がする。育休制度の問題、積み重ねたキャリアとの兼ね合い、子どもの預け先への不安、病気をした時の対応のこと・・・

〈働くこと〉と〈子どもが育つこと〉、どちらもそれぞれ大事に考えられる社会の体制が整えばいいのに、と考えている。働くも、働かないも、気持ちよく選択できたらいいのに。

自分の人生の柱として、仕事を続けることも、私は素敵なことであると思う。

子育てしながら、仕事をしても、親は親だ。

仕事をしているから、子どもたちが可哀想などというのは、ナンセンスだ。親が常に子どもと一緒にいるから、子どもが幸せだとは言い切れないのと同じだと思う。

子どもとの関係性は仕事を続けていることや、幼稚園に預けていることなどが、基本的な問題点では無い気がする。

子どもとの繋がりは、もっと奥深いところで、構築されているのだから。


やや話が逸れたが、〈自分が自分の人生の主役〉であることは、子どもが居ても居なくても変わることはなく、自分で自らの人生の選択を続けていくことになんら変わりないと思うのだ。

ただ、親という役割を担うときには、私は、完全な脇役を全うしたいと思っている。〈子どもの人生という舞台に於いての完全なる脇役〉を。


我が家は、家族で通うことができる幼稚園に通っている。

当然、多くの親も一緒に通ってきているのだが、子どもの場に於いて、いったい誰が主役なのか?と、わからなくなる場面にしばしば遭遇し、自分の中で違和感を感じることがある。

親が自分を認めて欲しくて、激しく主張したり、「自分らしく生きる」とか「子どものことを手放して自分軸で生きる」と掲げ、「私が!私が!」と前のめりに出てくる大人を見かけた時には、〈あぁ、そういう人もいるのだなぁ・・・」と流して、流して、流しまくるのが基本だが、あまりにもその数が多くなると、正直、げんなりする。

「明らかに、大人が小さい人に合わたほうが、スムーズだろうなぁ・・・」

「それって余計な一言では・・・」

「もう、ホントに大人って邪魔・・・。」


脳内でヤンキーが、相当の毒付きっぷりである。私の脳内がちょっと幼稚園通いに疲れている・・・スミマセン。


〈私の場合〉ではあるが、子どもがいても、自分は自分である。

そして、子どものことを抱えて生きていても、自分は、自分である。

子どもたちとのわちゃくちゃな日々も含めて自分の人生だと思っている。

「子どもがいるから、自分らしく生きられない。」と子どもの責任にするのであれば、お門違いだろう、と憤りを覚える。

そもそも、自分らしく、とか言うこと自体が幻想かもしれないと思ったりもする。

「本当の自分」とは、本当に、存在しているのか?

もし、いうなれば、「今、此処に居る自分だけが、本当の自分」だと言えるかもしれない。

本当も嘘もなく、今、此処に居る、現時点の私が、自分。

子どもたちといても、私は私、である。

母親であったり、大人であったり、妻であったり、〇〇ちゃんのお母さんであったり、場面場面で色々や役割を担っているが、それもまとめて、〈私〉である。

子どもたちが楽しそうであれば、私も嬉しい。
そして、子どもたちが輝くことを邪魔しないためであれば、喜んで脇役を務め上げる。

それは、親として、味わえる最高の喜びであると思う。

脇役は、脇役に徹してこそ、物語が面白いものへと仕上がっていくのではないだろうか。

脇役が、主役を乗っ取ることは、あってはならない。

乗っ取ることが許されるとしたら、才能が溢れ出て、その才能は本人はもとより、誰にも押し留めることができない、ガラスの仮面の北島マヤだけだと思う。

私の大好きなnoterさんであるakmitaさんから、こんな身に余るお言葉をいただいた。

「けいこさんの子育ては子どもがいつも中心なのに、けいこさんもちゃんと中心にいてすごく素敵!子どもがのびのび生きることを全力でサポートしている貴方の才能に惚れ込んでいます!これからも、よろしくでーす❤️」

akmitaさんのお言葉より。

脇役として、まだまだサポートしきれていない私であるが、このようなメッセージを頂き、それなりには、「親としての私」が、脇役を務められているのかもしれない・・・と元気をいただいた。子どもたちの主役の座を乗っ取ろうとする大人に辟易していたので、多くのエネルギーいただいた。ありがとうございます!


子どもたちには、これからも自分の舞台でスポットライトを浴び続けて欲しい。

そして、いつか、脇役を演じる日が来た時には、他にはないその楽しさ、面白さを味わって欲しいと思う。

脇役は、とても幸せな役回りだから。

脇役バンザイ。

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