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漫画みたいな毎日。「毎日は、旅であり、冒険である。」

昨日は、末娘が風邪気味だったので、念のため幼稚園を休んだ。

一昨日の夜から、「黄色い鼻水が出る。」と自己申告があり、眠る前に身体を触ると、やや微熱気味かな、と感じた。夜中に熱が出るかもなぁ・・・と思いながら眠りについた。

隣で眠りながら何度か娘の身体を触ると、予想通り、それほど高くはないが、発熱していた。しかし、朝方にはすっかり熱も下がっており、本人はスッキリした表情をしている。

こういうことは、よくある。

熱によって殺菌されて、スッキリしたのだろう。
鼻水も回復期の透明なものに変わっている。

身体ってよく出来ているなぁ・・・と感心する。

我が家の子どもたちの免疫力は、第一子より第二子が高く、さらに第三子へと高まっており、二男も3歳までの発熱は数える程だったが、末娘にいたっては、3歳までに発熱したのは、2回だけだ。

長男の時は発熱したり、鼻水や咳が出始めると、完治までには1週間から10日はかかり、治った数日後には新しい菌をもらう、という有様だった。薬を一切受け付けない子であったので、ゆっくり治るのを待つ、ということになるのだが、それはつまり、親の胆力も試されるということであった。


幸い、長男が小さい時に住んでいた神奈川県では、近くに小児から大人まで診てくださる診療所があり、必要以上に薬を出さない方針の医師がいらしたので、ありがたかった。「お母さん、3日は我慢して様子を見てみてください。それでも経過が良くなければ連れてきて。」と言われていたので、緊急性が無ければ、すぐに病院に駆け込むことはなかったが、「なにかあった時には相談できる」ということが、とてもありがたかった。

しかし、何にしても、どこからが病院を頼る範囲か、というのも親の判断に委ねられる。

高熱が出れば、痙攣などの心配もあるし、あまりにも咳が止まらなければなにかよからぬ病気では?と頭をかすめる。

受診するか否かの判断をする際は、どんなに回数を重ねても、いつだって正解などないかもしれないと思いながら、ひたすら子どもの病状の経過を観察することに集中していた。

体調が悪い時に、病院に連れていくこと自体が子どもの身体や心の負担になるタイミングもあると感じていたので、〈子どもの不調に対する、私自身が感じる不安との我慢比べ〉という一面もあったなぁ・・・と、その頃の自分の必死さを振り返る。

子どもたちの免疫力の獲得の方法は、環境によるものなのか、遺伝によるものなのか、なんとも言えないが、子どもたちは、それぞれのやり方で免疫力を獲得しているのだろう、と思って観察している。

保育士という仕事をしていたこともあり、子どもたちが罹ることのある病気に関しては、ある程度の知識や救急的対応も学ぶことができ、自分の子どもの病気や怪我にも慣れているでしょう、と言われる。

保育士をしていたから、子育ても楽勝でしょう?と言われることも多々あったが、その度に返事に困ったという記憶がある。

仕事としての保育と自らの子育てとは、まったくの別物であると思う。

保育士として経験を積ませてもらったが、親としては、だれでも最初は新人さんなのだ。

それでも、少しづつ、親としての経験も積ませてもらいながら、今までの保育士としての経験の引き出しも開けつつ、子どもたちの育ちに関われたことは、自分自身を助くるものでもあったと思う。

子どもたちに関わる仕事をしていても、子どもたちの病気や怪我に慣れることなどはない。

まして、自分の子どもの育ちに関わる前に、子どもの怪我や病気という状況を経験することがなかった場合、自分の子どもの不調に敏感になり、心配になるのは当然のことだと思う。

今は、あらゆる情報が溢れる社会で、「わからない」という不安が煽られることもあるだろう。

本来は、「わからないことだらけ」なのが、子育てなのだと思う。

わからないから、子どもに寄り添い、その時のベストを模索しようともがく。その〈もがく〉こと自体が〈親も、子も育つ〉ということなのかもしれないなぁ・・・。

身構えて〈〇〇相談〉などに出向くのではなく、日々の中で、もっと気軽に話したり、相談できる人や相談できる場があることが、大人たちが必要以上に不安にならず、子どもたちを大人の行動や思考の制限から遠ざけることができるような気がしている。

もちろん、情報が有効なこともある。

ただ、それはあくまで、〈ひとつの情報〉であり、自分や自分の子どもに当てはまらないこともある、と何処かで思っている必要があると思う。


旅や冒険というのは、綿密な計画があったとしても、完全には、予測不能なのだと思う。危険が伴うこともあるから、最大限予測し、準備し、計画を立てる。しかし、予測していない事が起きれば、計画は一から見直さなくてはならない。

子どもたちとの日々は、旅や冒険と似ている。

散歩ひとつとっても、旅に出ても、病気になった時も、今日一日の予定さえも、どんなに下調べし、計画を立てても、アクシデントが起きれば、そんなものは一気に吹き飛んでしまい、一から土台を作り直す。

自分の中の計画が無効になると、がっかりしたり、泣きたくなったり、イライラしたり、驚いたりもするが、〈そこに立ち止まっていても、状況は変わらないよね。さぁ、この状況、どう切り抜ける?〉などと考え始めると、段々と面白くなってくるから不思議だ。


私は、予測不能な日々が好きだ。

予想を超える出来事をどう乗り越えるかにワクワクする。

乗り越えた先の景色は、いつだって、格別だから。

フキバッタの抜け殻。とても綺麗に抜けているのは珍しい。
桑の実の歩き食べ。この近くの桑の実はとても大きい。後ろに桑の実を取る従者たち。笑
桑の実をたくさん食べたのがひと目でわかる・・・。
桑の実の髭模様。
何処でも虫捕り。捕まえたらすぐにリリース。


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