普通の世界で、普通に努力して、普通に夢を叶える
生きづらさが一つのテーマになり、フィクションの世界では「鬱っぽさ」が流行っている。なんて暗い世の中なんだろう。
本当に診断を受けた当事者の方には失礼を承知で言えば、「HSP」「ADHD」のレッテルに一種憧れのような安心感を抱く若者が増えているように見えるし、それはきっと「理由のないただの無能」ではないという証明に己の存在価値を見出すからなのではないかと思っている。私って繊細、と堂々といえるその図太さに拍手。数年前にセクシャルマイノリティであるAセクシャルを名乗っていた友達は会社で出会った異性と普通に婚約して、夜伽の惚気を飲み会で話していた。
でもそれらは全て、何かの形で特別であることの証明がないと生きづらくなってしまったこの世界が悪いのかもしれない。
そんな私は今日も今日とてコミュニケーションが苦手。斜に構えた物事の見方はどんどんと急勾配になっていき、空っぽになった冷蔵庫の白さの前でしか吐けない本音を飲み込んで眠る。とはいえ孤高の一匹狼を貫ける強さもなく、張り付いた仮面のような弱々しい笑顔はいつしか剥がれなくなった。
少し前に、とある経営者にインタビューをする機会があった。パワー系ベンチャーの若手の女社長。その屈託の無い笑顔の眩しさに震えた。わたしとは根幹から何もかもが違う。
そんな小さな偏見の芽を胸にノートにペンを走らせたのに、実は案外そうでも無い、ことを知った。彼女が語った成功の秘訣、はこうだった。
「承認欲求を失わないことですかね。有名になりたいとか、稼ぎたいっていうのでもいいんですけど、もっと小さなレベルで『一緒にいる人に求められたい』から『その人に向けて価値提供をする』んです。わたし、強そうに見えるでしょ?(笑)」
「でもほんとは、人に嫌われることが1番怖い。求められないことが怖いから、自分の居場所を作るための価値を提供してます。たぶん、転勤族で学校がコロコロ変わってたことも影響してるとは思うんだけど」
誰もが何者になれる可能性を用意された時代で、何者にもなれなかった多くの人は自分の手にすることのできる幸せこそが、自分の最大容量なのだと、半ば諦め混じりに受け入れていく。誰かに自分の写真を見せられたときに「優しそうだね」という感想で終始しないように。ちなみに、優しそうだねは悪口。
お金、職業、顔。アイデンティティというにはあまりに薄っぺらい借り物の称号でも、この世界で泣きたくなる夜を減らすには十分な力を発揮してしまうことがあるのは皮肉だ。
価値、とは何なのだろう。周囲に価値を(見つけられて)認められること?それは自分の価値を自分がまず最初に認めて、それを周りに還元することも含まれる?もちろんそこには未来の自分も含まれていると思うのだけど、25歳を迎えれば、既に「諦め」ている人にもであった。
夢を持っている人が偉いなんて微塵も思わない。でも、諦めた夢に理由をつけなければいけないと錯覚させられるような透明なロープに、私たちはずっと縛られている。
あの職業は門戸が狭すぎるから。アーティストになるには始めるのが遅すぎたから。あの大学を出ていなかったから。いろんなやるせない事情がヒビの入った薄氷のように足元に広がっていて、いつ割れるか、いつその下に潜む暗闇の味を知らねばならないのかと震えながら生きるならば、自分で持ってきたビート板の上に立っている方がよっぽど楽だ。薄氷の上を歩く愚か者と違って、ゆらゆらゆらゆら、ビート板の上なら震える膝を誰も笑わない。
努力と夢というものはしばしセットで語られるけれど、持論で言えば「努力とも捉えてもらえないような努力」の積み重ねが夢への近道なんじゃ無いかと思う。テレビで芸能人がよくいう「お金がなくてカップラーメンを日々啜るエアコンの無い生活から成功した」の「お金がなくて〜」の貧乏時代は、一般的に考えられる夢を叶える努力として辛い生活を耐え凌いだわかりやすい例だ。
でも、それらは成功した人が後から振り返っていうから世に健在しているのであって、大半はカップ麺&エアコンなし生活に耐えかねて夢を諦めてしまうのではないか。夢よりも生活。生きるためには当然の決断だと思う。
だからこそ平々凡々な私のような者にこそ求められるのが天才たちが嫌う「普通の世界で普通に努力をする」ことなんだと思った。普通に就職したり、誰かに教えを乞いたりする。普通に勉強する。その時点では何かの卵として認められすらしないのかもしれないけれど、何かを手に入れるための本当の下積みってそういうことだと思う。
派手なドラマのような刺激がなくても、周りから「すっごい努力をしていて辛そう」に見えなくても、その地味さに挫けずに淡々と日々積むものを積んでいく。普通の世界で、普通に努力して、普通に夢を叶える。それを自分の世界として持ち込んでこそ、普通の人は普通を脱せるんだと思う。
まあでも大前提、価値感も欲しいものもそれぞれに違う時代なんだし、自分の幸せの定義を信じられる人が1番強いんだけど。今日もまた声すら発することなく終わる1日を眺めて、エアコンのガンガン効いた部屋でカップ麺の残り汁を啜ることが、私にできる努力なのかもしれない。
2022.06.18
すなくじら
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