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サイレント・マジョリティ〜正義について思うこと〜

自分の中の正義の剣は、きっとどうしてもやるせないことへの絶望感とか、かつて体験した痛みから決別するために、わたしたちそれぞれが、自己防衛の武器を作ったのがはじまり。


革命を求め、声を上げること、自分の正義を貫くことはときに悲しみの連鎖を断ち切ることもできる。


正義には2種類ある。1つ目は【自分の内側から湧き出てくる正義】で、2つ目は【他人の感情から誘発される正義】。


わたしの心のすみで、いつも黒く渦巻いているのは後者だ。


小学校5年生のとき、わたしのクラスにはひどいいじめがあって、担任のおばさん鬼教師はいじめっ子をみんなの前でひどく叱った。一人ひとりが順番に当てられて、「いじめは良くないと思います」みたいな発言をしたと思う。

わたしは確か「見ているだけだった自分も加害者と一緒だと思います」みたいな内容を話した気がする。学級委員のあの子なんかは、嬉々としていじめ撲滅のための希望を語っていた。殺伐とした空気に重なる、揺れるカーテンの隙間から見える青空と、校庭の体育の掛け声がなんともミスマッチだった。


そして、次の日。いじめはぴたりと止んだ。毎日泣かされていたあの子はもう泣いていなかった、代わりに目を伏せていた。そう、あの子へのいじめは止んだ。ターゲットが変わったのだ。ゴミ捨て場に捨てられていたのは、いじめていた男の子のかかとのつぶれた上履き。


いじめの中心は例の学級委員の女の子で、以前いじめを受けていた生徒は終始教室の隅で見ないふりを徹底していた。復讐の代行者さながらの彼女は、同じ罪を繰り返していることに気が付いていない様だった。そして、「なにか」を学んだクラスメイトたちは今度は誰も先生に告げ口をしなかった。いじめは卒業まで続き、彼は学区外の中学校へと旅立った。


世の中にはどうしても許せないこと、許してはいけないことがある。人を傷つけたり、嘘をついたり、相手に見下されたときに、わたしたちはしっかりと声を上げるべきだ。


ただときどき、わたしはわからなくなる。さまざまな場面で表れる「復讐の代行者」たちが。だれかの遺族であるとか、声を上げた人とか、そういう直接的ことを指しているのではなくて、だれかの生み出した正義を振りかざすことに疑問を抱かない者。声を上げられない誰かの声として、自分の剣を鞘から引き抜くもの。道徳の授業で良いことと悪いことのお勉強を集団で受けてきたから、日本人はこうなのか。海外の教育体制を知らないから事実はよくわからないけれど、正義の民衆たちとギロチン死刑になる悪人の構図はいちばん、こわい。いつかその刃が、自分に向けられる可能性だってあることが。フォーマットはすでにあって、きっかけ次第で誰がギロチンにかけられることがわからないことが。正義と悪の一騎打ちを、民衆が囲んで見守る。それはいけないことなのか。



欅坂46のかの有名なヒットソング「サイレント•マジョリティー」は、アメリカのニクソン大統領の、1969年ベトナム戦争についての演説、「グレート・サイレント・マジョリティ(the great silent majority)」に由来している。積極的な発言行為をしないが大多数である勢力。意思がないわけではない。たくさん自分なりに考えた上で、サイレント•マジョリティを選んでいる。そうして自分自身や、本当に自分が大切にしている存在が蔑ろにされたときに怒るためのエネルギーを溜めておくのだ。



大きな大きなノアの箱舟は、たくさんの人の言葉を乗せて、悠々と海を渡る。船が進む方向を地上から見守りながら、わたしは帰路につくのだろう。





2021.05.19
すなくじら


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