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ひとりが好きな人たちの村

次の予定が3日後であることは、手帳を見ずとも知っていた。人生の夏休みと呼ばれた大学時代でさえ、やれアルバイトだ、やれ友達との飲み会だで、こんなに時間を持て余すことはなかったかもしれない。嘘。持て余してはいないかも。むしろ、やりたいことが増えて忙しい。それでも、こうして数日ひとりでぼうっとしているだけで、なんとなく頭の中に膜が張っているような気がするから、やっぱり人と話すことって大切なんだなと、つくづくと感じている次第である。


この日は夜から友達に会った。実家で飼っているトイ・プードル二匹に、プラダとシャネルと言う大層な名前を付けたのに、お父さんはその犬たちをシロと呼んでいる話に、ケラケラと笑ってしまった。犬は、どちらで呼んでも振り返るそうだ。結局、名前は付けた側の自己満足ということだろうか。名前や意味をつけることで、所有者を確かめる。そのためだけの記号なのかもしれない。最近は、嶽本野ばらさんの「ミシン」を読んでいる。久しぶりに、何か作品に触れて、これはわたしの物語だと思った。いくつかの言葉は、昔わたしが人に送ったものそのままだった。YohjiYamamotoやコム・デ・ギャルソンの白や黒い服ばかりを好んで着る理由を問われた時、「これはわたしの武装なのよ」と答えている。世界の終わりという雑貨店は、わたしの理想であり、始まりであり、求める世界そのものだ。こういう読書体験に出逢えた時、この本をこのタイミングで読むことは、既に神様に決められていたことなんじゃないかって思う。この人の作品は、もっともっと読みたい。何もない日々の中で毎日投稿をすると、人と関わらずに何かを生み出すことがとてつもなく不可能に近いことを感じる。人と関わることは疲れる上に、時にどうしようもなく傷つくけれど、何かが生まれるのもまた、人との対話による副産物なのだろう。基本的に人に会うことで、エネルギーをチャージするタイプではないので、どうしても誰かといることで体力的に削られるものがある。それでも、億劫になりながらもラインは返すし、約束の場所に向かえばそれなりに楽しいことはわかっている。断れなかったりすることもあるし。人間関係ってなんでこんなに面倒なんだろう。基本的に一人の時間が嫌いじゃないタイプだけで構成された村とかあったら、棲みやすそうだなあ。でも、創作の質は、艶やかさがなくなって新鮮な作品はその村にいる限り書けなくなりそう。コロナで、外出を控えることが正解とされた世界の方が、アンサーに困らなくて済むようになった。頭を使わないからこれはこれでいいのではと少し思いつつ、わたしはやっぱり、ライブハウスで爆音の音楽をまた、頭から浴びたいと思うんだよね。欲張りな自分。





2021.01.21

すなくじら




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