諦念|日記|2022/12/14
12/14(水)
読書量が増えるほどに本を読む速度が遅くなっている気がする。いつもの朝の通学時間、若林正恭『社会人大学人見知り学部卒業見込』を読んでいて、ふと思った。何故こんなに面白く文章も平易で読みやすい本を読了するのにこれほど時間がかかっているのか。
考えられる原因として真っ先に思い浮かぶのは、マルジナリアを実践していることだ。マルジナリアとは本の余白に書き込みをすること。その言葉の響きからは個人的に花畑を連想させるのだが、読書の最中に花開いた想念で一つ一つのページに彩りを添えていくと捉えればあながち間違ったイメージではないかもしれない。山本貴光『マルジナリアでつかまえて』に影響を受け、このマルジナリアを半年ほど前から実践し始めている。例えば印象に残ったところに思い切って線を引いたり、共感できるところには「禿同」という文字を残し、知らない言葉があったらその場で意味を調べて書き記す。それから文章中に新生という煙草がでてきたら、これは安部公房『砂の女』の仁木順平が吸っていたなぁとか、そんな雑多なことも記録したりする。まあこういう寄り道ばかりをしていたら読むスピードは遅くなるのも当然と言えるだろう。けれど半年前からしていることなので、最近になって遅くなったと感じることには他に原因がありそうだ。
そこで少し考えを巡らし、ある一つの結論に至った。それは一種の諦念のようなものを自分の中で獲得できたからなのかもしれない。以前の僕は読み急ぎすぎていて、この世に存在する面白い本を出来るだけたくさん読みたいという思いに突き動かされていた。けれどたくさんの本を読めば読むほど、たったひとりの人間が一生をかけて読むことができる本の少なさ、時間の有限性といったものに思い至る。そこに押し寄せてきた最近の怒涛の忙しさは僕の読書スタイルを木っ端微塵に崩壊させ、いつしか人生をかけても全ての本を読むことはできないという事実を受け入れ始めていた。むしろ限られた人生の中で出会った本たちとの縁を大切に、もう少しゆっくりと時間をかけて味わおうと自然と思えるようになったのだった。
今はオードリー若林さんのエッセイを読むことがとても楽しい。この人の自意識過剰っぷりには共感できるところがたくさんあって、読んでいて一緒の傷を舐め合うような感覚になってちょっと安心する。少しの生きづらさもこの本があればと思うと和らぐような気がする。これからは読み終えてしまうのが惜しいという読書体験をもっと多くしていきたいなと思う。
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