気がついたら芸術で生活していた(1)──モノに情報の付加価値をつける

こんにちは。どうも、樋口ヒロユキです。SUNABAギャラリーというギャラリーをやっています。

ご存知の方はご存知かと思うのですが、私は実は、大学を出た当初は会社に就職してサラリーマンをやっていまして、それがいつの間にか評論家となり、さらにギャラリーという業態に変わって現在に至っています。本当はもっと複雑なのですが、そのあたりはおいおいご説明します。

で、これは意識的にそういう状態に変わっていったというよりも、気がついたらそうなっていたというか、そうせざるをえなくなっていたというか、そういう不思議な成り行きでギャラリー業務に関わることになった、というのが正直なところです。

世の中にはいろんな方がいらっしゃるので、俺は何が何でも芸術で身を立てるのだ、という鉄の意志でもって、美術作家になったり小説家になったりする方が多いのではないかと思うのですが、私の場合はむしろ逆です。私自身は普通に勤め人として生きていこうと思っていたのに、流れ流れて生きているうちに、結局は芸術で生活を立てざるを得なくなったのです。

自分のような生き方が他の誰かのご参考になるかどうかはきわめて怪しいのですが、もしかしたら何かの役に立つかもしれない。まあ、何の役にも立たない可能性の方が高いのですが、まあそれはともかく。ここでは「なんでこうなった」という経緯を、じっくりお話していくことにしましょう。

生まれは九州の福岡で、1967年生まれ。昭和でいうと42年で、昭和、平成、令和という三つの時代を生きていることになります。福岡はのんびりした地方都市で、そこで普通に育ちました。両親は二人とも公務員でしたが、少し思うところあって、兵庫県にある関西学院大学の文学部、美学科という学科に進みました。ときに1980年代前半、バブルが始まる直前でした。

なんだ、それなら最初から美術関係に進もうと思ってたんじゃないの、と思われるかもしれませんが、そういうわけではありません。当時は日本企業の黄金時代で、世界のトップ企業のランキングに、いくつも日本の企業が入っていた時代でした。私はそうした輝かしい企業の世界に、美学の知識を活かして入っていきたいと思っていたのです。

モノを作って売る時代は終わった、これからは情報だ、ということが、そろそろ言われ始めていた頃です。インターネットも携帯電話もない時代だったのに、そういうことに目をつけていた人が、その頃の企業人にはいっぱいいたんですね。それだけ、日本の企業人は先を見て、向上心を持って仕事をしていたのでしょう(いまもそうだと信じたいのですが)。

とはいえ、当時は現在のように、ネットや通信の環境が充実している時代はありませんでした。そんなわけで当時の企業人たちは、モノにストーリーや情報をつけて売る、ということに盛んにチャレンジしました。そうした付加価値作りの手段の一つが、広告という存在だったのです。

実際、当時の広告はとても面白くて、ウイスキーの広告にスペインの建築家、アントニオ・ガウディの作品が使われたり、デパートの広告にニューヨークの映画監督、ウディ・アレンの顔写真が使われたりしました。いずれも広告の内容と商品とは直接関係ないのですが、ガウディの建築に酔うようにウイスキーを味わったり、ウディ・アレンの知的なコメディーを楽しむようにお買い物を楽しんだりしてほしいという願いを込めて、当時の広告人たちは仕事をしていたのでしょう。

[CM] サントリーローヤル~ガウディ編~https://www.youtube.com/watch?v=NPZlOzrtTSk

実際、広告業界からは、いわゆる「スター」がいっぱい出ました。広告の写真にたった一本のキャッチコピーをつけるだけで、多い場合には何千万もお金を稼ぐ「コピーライター」という仕事が、その頃の花型職種でした。いまでいえばYouTuberのようなものですね。

もちろん高校卒業の時点でいきなりコピーライターを目指していたわけではありません。百貨店のディスプレイの仕事にしようか、パッケージのデザイン会社に努めようか、それとも広告や広報の仕事に携わろうか。そんなぼんやりとした考えしか持っていませんでしたが、ともあれ「モノに情報の付加価値をつける仕事につきたい」というのが、その頃の私の思いだったんですね。

この話は長くなりそうなので、またおいおい続けていきます。ともあれ、ご静聴ありがとうございました。

#エッセイ #広告 #宣伝 #美術 #ギャラリー #企業 #バブル #コピーライター


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?