いつかの誰かのための記録

未診断の難病の母親の闘病を娘の視点から記憶、記録したもの。 入院中「生きることで精一杯…

いつかの誰かのための記録

未診断の難病の母親の闘病を娘の視点から記憶、記録したもの。 入院中「生きることで精一杯」と言われて始めた記録を形にしている最中。 2019年突然体調を崩し、2年の入院を経てお家で療養中。 母の生きる記録であり、私が生きる記録。 過去の私が出会いたかったいつかの誰かのための記録。

最近の記事

トライ&エラー 絶飲食からの解放。

2024年の私です。 最近調子良く、日々過去を 綴ることができています。 本日も読んでくださる方 ありがとうございます。 ーーーーーーーーーー 2019年、秋。 大学病院に転院した母でしたが 全身の状態が悪く、 根本にある小腸の炎症に 対する検査や治療を行えずにいました。 そうした経過の中で、 ようやく消化器内科の先生から 下部内視鏡検査の許可が 下りたのです。 母曰く、「胃カメラよりは楽」 とのことですが、 カメラという異物が体内に入るので 苦痛は相当です。 下部

    • 検査ははじまり。やっとスタートラインに立てた。

      4月1日ですね。 春らしい陽気に 心も軽くなります。 今年も桜が咲き始めていて 花びらを広げて咲く様は めいいっぱいに春を楽しんで いるようです。 今までは、桜というのは ただの春の季節の花。 けれど、母が難病になり 今夜が山場と言われたり、 一生病院生活かもしれないと 言われる中で 一緒に春を迎えられるということが、 どんなに尊いことか 思い知りました。 あんなに何気なく生活の 背景で咲いていた桜。 病室からは見えないし その風景の中に 自分を感じることができな

      • 2回目の集中治療室。ICUダイアリ―をはじめる母。

        2024年3月30日の私です。 ここ数日母の体調が良くなく 久しぶりにまた入院かと思いました。 同じ県内には住んでいるものの 距離は少しあるので すぐには行けませんが 週末にも入っていたので ダメならかかりつけを受診しようと 思っていました。 幸い、1日で発熱は良くなり 諸症状もおさまっているとのこと。 再来週には定期外来もあるので 一旦大丈夫かな〜というところ。 けれど、最近安定していたことを いいことに、少し油断していました。 今ブログで書いている時期は 本当に

        • ICUリターンズは翌日に。血圧40台を生還。

          これを逃してはいけない。 と今日も書いてみることに。 書きたいのだけど 心がまだ追いついてなくて 書けない。 でも、いつ書いておけば…と 後悔することになるか わからないので書く。 書きたくない やりたくないを越えるには やるという道しか残されていない。 2024年の私より。 ーーーーーーーーーー 闘病記、つづき。 時は2019年。 はるばる救急車で移動した転院と その翌日からの集中治療室の入室。 そんな日々を乗り越えて 一般病棟に戻ってきた母。 私も少し安心して

        トライ&エラー 絶飲食からの解放。

          ついに元凶の小腸へ辿り着いたのも束の間。

          こんばんは。 またまた日が空いてしまいまいた。 常に書かないと、、と 頭の中にはあるものの 自分の中に記憶としては 残っていない部分が多く いつもは自分から離れたところにある 記憶のハブにしまい込んでいるので、 取り出す必要があるのです。 普段消し去っている記憶を 呼び出すのはエネルギーが 要るものです。 けれど、先日ご縁をいただき 難病と難聴の会に 参加させていただいたのですが その時に、希少疾患ゆえに 経験を共有できないと 困っている方と出会い それはまさに

          ついに元凶の小腸へ辿り着いたのも束の間。

          診断がつく絶望と安堵の間で。

          時は2024年の1月です。 またまた、久しぶりの更新に なってしまいました。 今年は定期的に更新して 過去の出来事を書き終え、 現在のことを 書き記せるようにしたいと 思っています。 文章を書くことは苦ではないのに 下書きも10記事以上あるのに 中々進められないのは ただ私が怠惰なのもあるけれど、 文に起こすと少なからず 気持ちが過去に引き戻されるので それが中々に辛いのだと 明確に認識はしていないけど、 きっとそういうことなのだと 思っている。 当時のことは記憶に

          診断がつく絶望と安堵の間で。

          ”非特異性多発性小腸潰瘍症”という遺伝子疾患。

          あっという間に訪れた 2回目のICU入室。 どこか慣れた様子で 日々を過ごしている母。 2度目ですもんね。 そんなある日、 医師から”遺伝性の疾患”の可能性 があることを伝えられた。 それは 「非特異性多発性小腸潰瘍症」 という疾患。 これまた聞いたことがない。 「遺伝性」という言葉に 一瞬病室が凍りつく。 母と私、それぞれに言葉も 視線も交わさないけど どこかどちらも何も 発せないような。 発したら何かに触れるような そんな感覚だった。 まだ、確定ではないけ

          ”非特異性多発性小腸潰瘍症”という遺伝子疾患。

          4週間で30㎏の体重増加。

          ICUに移ってから、 元々メインで治療してくれていた 膠原病科の先生チームに加えて 救急科や消化器内科、感染症内科など 色々な科が関わるようになった。 転院した直後は 敗血症という全身に感染が 回ってしまっていた状態で 生命の危機も感じていたけれど すぐに抗生剤が再開されて 感染症自体は改善。 血圧も安定して、 昇圧剤も不要になった。 けれど、低アルブミンの状態は 持続しており、 アルブミンの投与が必要不可欠な 状態でした。 母の場合、小腸の炎症が広範であり、 急速

          4週間で30㎏の体重増加。

          食べられなくても食べる方法を見出す母。

          ICUへ移動して3日くらい 経過したある日のこと。 この日を転機に母に 楽しみが生まれた。 その日も確か お昼過ぎくらいに面会に。 ぐったりとしていた 数日前と比べて ここ数日で顔色も血色を 取り戻した母。 目にもエネルギーが宿っていた。 視線がしっかり合って、 会話ができる。 当たり前のことに 嬉しかったものだ。 ICUに移ったばかりの頃は 鎮静も使われていた。 あまりにも吐き気や腹痛がひどく 休んでいられず、夜だけ 投与されていた。 そんな経緯もあって 面

          食べられなくても食べる方法を見出す母。

          「生きているだけで精一杯」

          転院後1日で集中治療室へ 移動となった母。 当時はコロナ禍前だったので 病院への面会も制限なし。 転院直後に状態変化があったりと これが最後になったら…と 思っては気がついたら毎日のように 面会に行っていた。 集中治療室は一般病棟と違って 自由に出入りできるわけではない。 病棟のインターホンを鳴らして 来たことを告げると 大体待つように言われる。 初日は同意書書いたり 買い物に出たりと時間を潰せたが 何もせずに待つだけとなると 結構しんどいもの。 空き時間があるな

          「生きているだけで精一杯」

          集中治療室へ送還。

          大学病院への転院翌日。 大学病院に入りさえすれば とりあえずは安心だと思って 一月ぶりくらいによく寝れた朝だった。 ここ数週間は毎日のように 遠方の病院に行っていたし 朝ベッドの上でゆっくりする 時間なんてなかった。 今日くらいは…と思って 二度寝をしたりした。 そして、ふと起きた時に ”03ーーーーー”からの不在着信。 すぐに折り返すと 大学病院の先生からだった。 昨夜から血圧が不安定であること、 感染を落ち着かせるために グロブリン療法を行う必要があること、 よ

          人生初の大学病院。移動中思わぬ状態に。

          救急外来の受け入れ口に到着し 都内の大学病院の 大きさに気後れしながら、 同乗してきてくれた主治医の先が 担当の先生連絡をする。 しばらくして、 大学病院の新しい医師方が 挨拶に来てくれた。 年配のベテラン先生と 若い研修医が数人。 今回も引き続き アレルギー系の科での入院。 母の主病態は小腸炎。 なのになぜアレルギー科かというと、 成人スチル病という診断もされており 地元の病院では主科(主に担当する診療科)が リウマチ科だったことから。 そのままリウマチ科とし

          人生初の大学病院。移動中思わぬ状態に。

          人生初の救急車。県をまたぐ大移動。

          転院日は8月28日に決まった。 前日に病院に行き 荷物をまとめる。 オムツとかおしりふきとか。 今回の入院で母にとって 必要なものが増えました。 母はまだ50歳代。 職場の病院で成人用オムツは 見慣れているものの 自分の母のものとなると別問題。 実感がありませんでした。 けど必要な状態に なっている現実。 小腸の炎症は とどまることを知らずに、 下痢や嘔吐を繰り返す。 点滴を行なっても、 腹水や胸水として 体内に出てきてしまう。 どうなるんだろう… なんて考える余

          人生初の救急車。県をまたぐ大移動。

          大学病院への転院。命と引き変わった条件。

          更新が遅くなりました。 ここら辺の時期は思い出すだけでも 涙が出てくるし、 メモを見ても 色々なことが蘇ってくる。 4年経過したというのに 今だに干からびも腐りもしないのです。 まだまだ私の中で水分多く 瑞々しいまでに保存されている。 なので、書きたいのに どこか気持ちが向かえない部分もあり。 筆をとるスピードが格段に 遅くなってしまいました。 それでも、これは書き残すと 自分の中で決めたことなので 少しずつですが 更新していきます。 それでは時を戻して、 大学病院

          大学病院への転院。命と引き変わった条件。

          大部屋から処置室への移動が意味すること

          最初の検査入院時も 今回の緊急入院も 最初は大部屋に入院していました。 大部屋って料金かからないと 思っていたのですが、 それは都内くらいのものなのですね。 かかりつけの病院は 大きな病院といえども 地域の病院。 市外の入院患者さんは 大部屋でも料金がかかる仕組みでした。 入院から数日は大部屋で 過ごしていましたが 状態の悪化により処置室に移されました。 処置室というのは 一般病棟の中でも少し重症だったり、 ケアの必要性が高い患者さんが 入室するお部屋。 一般病棟

          大部屋から処置室への移動が意味すること

          「ここ数日が山場」と言われて。

          再入院で発覚した小腸炎。 絶食と点滴で一時的に体調は改善。 しかし、原因は不明のまま。 入院10日後くらいには 嘔気や嘔吐、食思不振が 再び現れました。 面会時にだるそうに、 でもなんとか壁をつたってトイレに行く母。 いつも面会に行くと ベッドに腰掛けて雑談するのが日課。 なのにその日はずっと 横になっていました。 「なんだかお腹膨れてるんだよね」 そんなことを言われて そっと見させてもらうと… 明らかにお腹が張っていました。 その日は夕方にかけて発熱。 休日だっ

          「ここ数日が山場」と言われて。